「今からでも、少しずつ学校の空気に慣れていけばいい。いきなりクラスに入らなくていい。最初は、保健室でもいい。来年から、一学年下の子たちと一緒になるけど、そこからまた、やり直してみるって選択肢もある」


ゆっくりと、言葉を重ねる。否定も押しつけもせず、ただ事実と希望の間を丁寧に歩くように。


「無理にとは言わない。でも、お前がやり直したいって思えるなら、俺はいつでも、その手伝いをするから」


酒井さんは何も言わなかった。

ただ、膝の上で握った両手の指が、ほんの少しだけ動いたのが見えた。


返事を求めるつもりはなかった。

答えはすぐに出せるものではないとわかっている。

だから、玄関先で改めて一礼し、「また来るよ」とだけ告げて、その家をあとにした。


家を出たとき、空にはもう夕焼けが広がっていた。

朱色の光が、街をゆっくりと染めていく。


通りの向こうに伸びる影を見つめながら、來はふっと口を開いた。


「進めない時計なんてない。どんなに止まってるように見えても、人はいつか、また動き出せる」


自分に言い聞かせるように、けれど確かに、そこには誰かを信じる気持ちがあった。


――そのときが、もうすぐ来る。

その予感だけが、今日の疲れをやさしく包み込んでいた。