「こんにちは、酒井さん」


傘をたたんで玄関の前に立つ。いつものように母親が応対に出てきて、「今日は機嫌悪くないみたいなので、大丈夫だと思います」と少しだけ安堵を含んだ笑顔を見せた。


この訪問も、もう何度目になるだろうか。


來と交互に訪問するようになってから、酒井さんの反応がほんの少しずつ変わってきた。

最初はまるで壁のようだったのが、今では一言二言、ぽつりと返してくれるようになった。


「……こんにちは」


今日も小さな声で、それでも確かに返ってきたその挨拶に、胸の奥がほっとする。

居間のテーブル越しに座って、いつものように「無理に話さなくていいからね」と告げる。


それが合図のように、酒井さんは自分からは話さないけれど、こちらの言葉には耳を傾けてくれているのが伝わってくる。


「この前、來先生が言ってたけど、猫カフェって最近人気なんだってね。酒井さんは猫、好き?」


一瞬だけ、酒井さんの目が動いた。


「……犬のほうが好き」


その言葉に、奈那子は驚きながらも笑みをこぼす。