來は、こういう時、決して大げさなことは言わない。


でも、そのひと言ひと言が、奈那子の迷いを溶かしていく。

彼の言葉に背中を押されて、ようやく立ち上がることができた。


「じゃあ……行ってくる」

「傘、持ってけよ。外、けっこう降ってる」

「うん」


來が差し出した傘を受け取り、マグカップを片づけようとすると、彼がそれをさえぎった。


「いいよ、あとで俺がやる。……行ってこい」


ありがとう、の言葉を喉元まで出しかけて、飲み込んだ。


玄関のドアを開けた瞬間、雨の匂いとひんやりした風が頬をなでた。


ポケットには、手紙がある。

渡せるかは分からないけど、少なくとも、このまま何もしない後悔だけは、もうしたくなかった。


家を出て、傘を開き、静かな夕方の住宅街を歩く。

聞こえるのは、雨粒が傘にあたる音と、自分の足音だけ。


酒井さんの家が近づくにつれて、胸が高鳴る。

緊張もあるけれど、それよりも、“伝えたい”という気持ちの方が今は強い。


そして、家の前に立った。


黒い門の奥には、まだ灯りのついていない窓。

どこか冷たく感じるその光景に、一瞬足がすくむ。


だけど、傘を握る手に力をこめて、インターホンの前に立つ。

深呼吸をひとつして、指を伸ばしかける――。