苺花は倒れてしまってから、3日ほどバイトのお休みをもらっていた。
久しぶりのバイトの日。
苺花がお休みさせてもらってた間も詩はシフト通り仕事をこなしていた。
今日は2人で一緒に出勤する。
まず照山さんにご挨拶して厨房や他のバイトの方たちにもご挨拶。
みんな心配してくれて声をかけてくれた。
温かくてホッとする!
ちょっと涙が出てしまう。
詩がポンポンと肩を叩いて笑顔を見せる。
うん。ありがとう。
安心した。
苺花もホッとした笑顔を詩に見せた。
更衣室で準備をしてから、リストを持って在庫の確認をしていると千隼が出勤してきた。
珍しく心配そうな顔をしている。
「大丈夫なのかよ?
ゴリラ苺花がぶっ倒れるなんてさ。」
言うことは全然心配してない感じで失礼しちゃう。
「ゴリラってなによ!
でも大丈夫だよ。
自分でもびっくりしちゃったけどね。」
頬を膨らませながらも、悪口は軽く受け流す。
だってここはバイト先だからね。
大声でケンカなんかしたら恥ずかしいもの。
「まあ、無理すんなよ。」
って千隼が珍しく可愛いげのある笑顔で苺花の頭をポンポンと軽く叩いてくる。
いつもこういう顔をしてたらいいのに。
詩に似ていてとても可愛いんだよね。
顔は。
いつの間にか千隼の方が背が高くなった。
上から見下ろされるのも、こうやって上から頭に手を載せられるのもちょっとむかつく。
けどこんなに素直な千隼が珍しかったので、
しばらくされるがままになっていた。
すると、千隼の手がビクッとして突然引っ込められる。
「もーなに?」
って笑いながらその顔を見上げたら
千隼は苺花を見ていなくて、苺花の頭の上から後ろにいる人物を見ている様だった。
その視線を辿りながら苺花がゆっくり振り返ると
そこにはヨルさんが立っていた。
じっと千隼を見ていたようだがその視線を苺花の方に向けると、柔らかい笑顔になる。
千隼は顔を伏せて足早に
「失礼します。」
とお辞儀をして厨房に入って行った。
? 千隼顔色悪かった??
苺花がさっきまで千隼の手が置かれていた頭に手をやる。
「歳下の千隼にまで小さい子供のような扱いをされるようになってしまった。」
っと口の中でぶつぶつと文句を言う。
「苺花、先日は大丈夫でしたか?
体調は変わりありませんか?」
突然ヨルさんに呼び捨てにされてドキドキする。
心臓が早く打ち付けている。
嬉しい様な恥ずかしい様なくすぐったい気持ち。
足元もふわふわしちゃう。
「、、、はい。
先日は申し訳ありませんでした。
ちょっとびっくりしちゃったみたいです、、、。
ご迷惑をお掛けしました。
帰りは店長に送っていただいたそうで、ありがとうございました。
これからは体調に一層気をつけます。」
とっておきの笑顔でヨルさんを見つめてからお辞儀をした。
「いやいや、こちらこそ。
ティンが初対面の女性にあんな態度に出るなんて、こちらも予想外でした。
怖い思いをさせてしまいましたよね。
申し訳なかったです。
お詫びと言ってはなんだけど、今日仕事終わったら食事に行きませんか?
ちょっとね、話したいこともあるんです。」
そして苺花の頭に大きな手を載せる。
いつもよりなんか撫でられる時間が長い。
「あ、僕に触られるのは不快じゃないですか?
苺花と同じ歳の妹がいるのでつい同じように接してしまいます。
嫌だったら言ってくださいね。」
不快に思った事など一度もなかった。
ヨルさんはとっても気遣ってくれて、嫌がることは決してしない。
だからとても信頼してる。
お母さんや詩以外の人をこんな風に思ったのは初めてだった。
「だ、大丈夫です。
嫌じゃ、、、ない、、、です。」
恥ずかしくて顔が赤くなるのが分かる。
嫌なんかじゃなくて、触れられるのがとっても嬉しいんだもの。
ヨルさんの手のひらは温かくて撫でられていると心地が良い。
そしていつもいい香りがする。
食事の約束をして、その日のバイトは先日の失敗を取り戻すように一生懸命働いた。
気分がふわふわして顔が緩んでる。
詩が「あんまり無理しないでよ!」
って心配して声をかけてくれる。
さっきヨルさんと食事の約束をしたことを伝えると、
ちょっと眉をひそめたような表情をしたが
「あら、そうなんだー。
よかったね〜。
帰りはちゃんと家まで送ってもらってよ。」
なんて表情をコロっと変えて両手の人差し指で苺花をツンツンと突いてきた。
身をよじってちょっとキャッキャと笑い声が漏れてしまう。
仕事中なのにふざけてしまった。
唇に人差し指を当てて
「シー!」
とお互いに牽制する。
さっきの詩の表情に引っかかるものを感じたが、そのやり取りで上手くはぐらかされてしまい、その後仕事の忙しさもあってすっかり忘れてしまった。
シフトの時間が終わって、詩に声をかけてからヨルさんとお店の外に出る。
最近は詩を見習って洋服も少しおしゃれに気をつけるようになった。
詩に買い物に付き合ってもらい、あれこれとショッピングするのも楽しかった。
おしゃれと言っても相変わらず選ぶ洋服は露出は控えめで色味も地味なものばかりだった。
今日は襟の大きいデザインのブラウスにロングスカート。
良かったスカート履いてきて。
ヨルさんは少しお酒も飲めるところ、
とおしゃれな個室のイタリアンに案内してくれた。
食事を楽しんで、甘くて口当たりの良いお酒もほんの少し。
少ししか飲んでいなくても、苺花はとてもいい気分になってしまう。
素敵なレストラン。
美味しい食事とお酒。
目の前にはヨルさん。
最高です。
最高です。
喜びを全身で表す。
お酒が入っているからちょっと気が緩んでいるのもあった。
きっと苺花の気持ちは大人のヨルさんにとっては、手にとるように分かってしまうことだろう。
ヨルさんはそんな苺花をいつもの慈しみ深い瞳で微笑みながら見つめている。
ヨルさんにはあの仄暗い欲望の熱を感じない、、、。
きっと苺花と同じ歳だという妹を見る目と変わらないんだろう。
恋愛経験のない苺花でも
、、、それは、分かる。
それでも良かった。
今はこのふわふわした幸せな気持ちに浸っていたいんだ。
しばらく学校生活の話、バイトの話など当たり障りのない会話が続いたが、
ヨルさんはフッと息をついた後、苺花から一度視線を外し、
そして再び苺花を見つめ直した。
ぐっと目の奥に力を込めたのが分かった。
不思議なグレーの瞳。
一番最初に見た時の色だった。
吸い込まれそう。
まるで天体望遠鏡を覗いた時に見た宇宙のような、、、美しく澄んでいる。
「苺花に話があると言ったでしょう。
実はね、この前苺花に怖い思いをさせてしまったんだけど、ティンのことなんだ。」
ヨルさんが右手で持っていたグラスをぐっと煽る。
静かな声。
「ティンのこと。」
苺花の頭の中でヨルさんの声が響く。
「あ、、、はい。
あの、なんでしょうか。」
真剣な様子に苺花も背筋が伸びる。
その声の静かなトーンのまま、ヨルさんが話し出す。
自分の経歴。
この辺りは詩に聞いた通りだった。
ティンは苺花と同じ歳で、最初に会ったのは彼が12歳の時だった。
美しい容姿が事務所のスタッフの目に止まり街でスカウトされたのだ。
その後事務所で受けた歌のテストで才能が発覚。
ダンスのセンスも良かったので、事務所の期待を一身に背負うことになった。
練習生として養成所の合宿所に入所してきたのだが、まだまだ幼くて大人の手がとても必要だった。
精神面でも生活面においても手助けが必要で、同じ歳の妹がいたヨルさんが自然と面倒を見るようになったのだった。
ティンはとても繊細で扱いづらく、周りの大人を信用しなかった。
ヨルさんが根気強く働きかけたことで、心を開き、徐々に素直に甘えられようになっていったのだった。
ヨルさんはそんなティンが可愛くて、ずっと支えてやりたいと思っていた。
話しながら、ヨルさんは思い出していた。
あの日、合宿所にやってきた彼は大きなカバンと白い犬のぬいぐるみを抱えていた。
大きな瞳の可愛いぬいぐるみで、彼が実家で兄弟のように育ってきた飼い犬によく似ているものだった。
家族を思い出し寂しくなるとその犬のぬいぐるみも抱いて寝ていた事を思い出す。
本当に子供だった。
泣いていた彼を抱きしめて一緒のベットで寝たこともあったな、、、。
と思わず笑みがこぼれる。
そのまま、また話を続ける。
子供だったティンの歌声を聞いてとにかく驚いたこと。
これが本物の天才だと思ったそうだ。
そんな天才を目の前にしてヨルさんは自分の限界を悟り、少しづつ違う世界を模索した。
そしてアーティストとは違う夢ができ、ティンのことは気掛かりだったけれど別の道を歩くことを選択して日本へ。
ティンがアーティスト集団のメンバーに選ばれ、仕事が順調に軌道にのり人気が出てきたのを日本のテレビで知りとても喜んでいたこと。
ずっと遠くで見守ってきたのだが、ここ最近の芸能ニュースなどで彼を目にする度に不調な様子が伺われ、自分が側を離れたことを申し訳なく思っていたし心配もしていのだと。
心配しつつも何もできないことを歯痒く思っていた。
そんな時に苺花に初めて会った。
その瞬間、苺花の物腰の柔らかさや素直な性格や雰囲気がとても好ましくて、ティンに会わせたら、彼の頑なな心をほぐしてくれるのではないかと直感的に感じたそうだ。
苺花には言わなかったのだが、
ティンの持っていた白くて目の大きいあの犬のぬいぐるみにそっくりだったというのもあった。
可愛いものが好きなティン。
だから、もし機会があれば彼に紹介したいとなんとなく考えていたそうだ。
今回は本当に降って沸いたような話で、
突然ティンの来店が決まったので、事前になんの相談もしない状態で2人を会わせてしまったことは申し訳なく思っていた。
実際に会ってみてティンの心が動くのかも分からなかったから、一種の賭けみたいな感じになってしまった。と。
ヨルさんは苺花を見つめてから静かに頭を下げた。
とても丁寧な仕草だった。
ヨルさんの瞳は私を映していない。
苺花を褒めてくていたし、認めてくれていることも分かったけれど、喜びは感じられず、心が痛かった。
ヨルさんの心の中にはティンが棲みついている。
、、、そう感じた。
ティンに会わせる為。
その為に私にあんなに親切にしてくれていたのか、、、。
今までのヨルさんの行動が全て繋がった気がした。
その事実がすごくストンっと苺花の中に落ちてきて、納得できた。
頭を下げたヨルさんにとんでもないと手を振り、頭を上げてくださいとお願いをする。
ヨルさんの為に私も何かしたい。
最初に出会った時から自然にそう思ってきた。
たとえ彼が自分と同じ気持ちを返してくれなくても。
自分の好きな人のためには何か手助けしたいと思うのはおかしいことだろうか。
悲しいことに自分のことを少しも好きだと思ってくれていない相手に対して、苺花は初めて「好き」という感情をハッキリと意識したのだった。