「坂さん」
 私の目の前に現れた卯波先生が、受付の坂さんに視線を馳せる。
「少しの時間、いいですか?」

「どうぞ。どこまででも、緒花さんを連れて行ってください」
「ちょ、ちょと、ちょ、坂さん」

 手首を掴まれ引かれて行く私は、用心深い子犬みたいな、すがる瞳で坂さんに救いを求めた。

 そしたら坂さんから、絵に描いたような愛想笑いで見送られて、そのまま卯波先生に休憩室まで連れて行かれた。

 私を部屋に引き入れ、うしろ手にドアを閉めるや(いな)や、強く抱き締めてきた。

「離して!」
「嫌だ」
「美砂妃さんがいるのに。私とは、とっくに終わったんですよ」
「美砂妃とは、最初からなにもない」

「離してったら離して!」
「聞けよ」
「離して!」
「聞けって」
「嫌! 離して!」
「ダメだ、離さない」

 ますます卯波先生の抱き締める力が強くなり、身動きがとれない。

「桃が気が済むまで、いくらでも俺の腕の中で暴れたらいい、もう逃げられないから」

「もう......傷つきたく......ない」
「桃が落ち着くまで、こうしている」
 そう言って、私を強く抱き締めていた卯波先生がふわりと力を抜いた。

 そのまま軽く抱き締めている卯波先生の腕から、すり抜けるのは容易いことなのに、もう私の心も体も動こうとはしない。

 初めてキスをした夜みたいに、強引に手を引いて、私を連れて行ったときと変わらない自信家ぶり。

 私が、拒否をしないって確信しているのが憎らしい。

「ずるい、卯波先生ずるいです。こんなに優しくされたら、もっとつらくなる」

 もう卯波先生には美砂妃さんがいるのに、それでも私は卯波先生が好き、大好き!

「卯波先生なんか大っ嫌い!」

「幸か不幸か、桃が俺のことを嫌いでも、俺は桃のことが大好きだ」
 私のことを桃って呼んだ。

 ずるいよ。緒花くんでもないの? あなたと呼んだときみたいに、冷たく突き放してよ。

「やっと堂々と言える日がきた。桃が呆れ返るほど言う、俺は桃のことが大好きだ」

 嘘つき! どうして美砂妃さんがいるのに、そんなことが言えるの?

「私は卯波先生のことが大嫌い、大嫌いだから、大っ嫌い!」

 “嫌い、優しくしない、冗談、遊びだ”って、早く私に言って、お願いだから。

 もうこれ以上、卯波先生の虜になるのが怖いの。からかわないで、諦めさせて。

「何度でも言います、卯波先生のことなんか大っ嫌いです!」

「どっちが嘘つきだ。それとひとつ、俺のことは、とっくに忘れたのか?」

 すべて見透かしてるぞ、というような眼差しで、鼻で笑われたと思ったら、子どもをあやすような優しい声で、私を抱き締めつづける。

 どうしようもないくらいに大好き!

「エンパスを侮るなかれ」
 心を読まれた。今さらながら気づいた、卯波先生の体質を。

 嘘も本音も、すべて私の心は卯波先生に見透かされる。

「それに、さっきから震えている」
 われに返ったら、隠しようもなく震えている。

「俺に逢えた喜びで、自分が震えていることにも気づかなかったのか」

 抱き締める卯波先生に包まれて、完全に動けなくなり、腕の中で心も体も持て余す。

 最初のころみたいに、震えが止まらない。

 全身が震えて、心も体も卯波先生のことが大好きって訴える。

「美砂妃とのことを聞いてほしい」
 覆い被さるように私を包み込み、抱き締めていた卯波先生が、そっと体を離した。

「ここに座って」
 じっと卯波先生の顔を見上げたまま、私は思いの丈を封じ込めるように、唇を噛み締める。

 抱いた警戒心は、なかなか解けない。怖いの、今度はなにを言われるのかが怖いの。