策略家がメロメロ甘々にしたのは強引クールなイケメン獣医師

 美砂妃さんの抑えたゆったりとした声が、恐ろしい威力で私の耳に突き刺さる。
 金切り声でまくし立てられる方が、どんなにいいか。

「そろそろ失礼しましょう、屋外は体に毒よ」

 柔らかそうな髪を優雅になびかせた美砂妃さんが「失礼」と私たちに声をかけて、立ち去ろうとした。

 院長に、ほんの一瞬だけ視線を送る卯波先生は、目を交し合い以心伝心で伝え合ったように背中を向けた。

「行きましょう」
 美砂妃さんに言われるままに、さっと切り上げて去って行く、卯波先生の背中に声をかけた。

「憎しみや残酷さやネガティブさは、体調を崩してしまうんですよね。お体に気をつけてください」

 卯波先生に、私の言葉が届かないはずがない。
 たとえ言葉は届かなかったとしても、私の心を感じているんでしょ。

 なのに背中をぴくりとも動かさず、アスファルトをゆっくりと踏み締めるように、悠然と去って行った。

 もう今の私は、うしろ姿を見送ることしかできない。
 心は哀しいって、胸を締めつけながら叫ぶ。

 まさか、卯波先生の背中を見送る日が訪れるとは、夢にも思わなかった。

 美砂妃さんが手を添え、寄り添う背中は振り返ってもくれない。

 徹夜つづきだなんて。
 顔色が悪い本当の理由は、私の心を感じているからでしょ。

 エンパスは二人の秘密だって約束したから、美砂妃さんにさえ告白していないんでしょ。

 いいえ、違う、私に言った。
 恋人には告白するって。 
 様子を見るかぎり、美砂妃さんは知らないみたい。
 どうして、彼女の美砂妃さんには伝えていないの?

「あああっと、さてと行くか」
 院長の声に、相づちも打てないほどのショック。
 口も利けないほど、哀しみに打ちひしがれて呼吸が重い。

「おい、歩けよ、隣に来い」
 目の前で院長がぱちんと両手を叩く音で、街中の雑踏の声が聞こえてきた。

 それと同時に冷たい風が頬や手足を駆け抜け、現実の世界に戻って来た。

 全身は血の気が引いて冷たく感じるのに、頭の中だけは熱を帯びて、どくんどくんと脈打ち熱くてのぼせそう。

「風向きが北風に変わった、寒くないか?」
「はい。カッカした頭を冷やすのには、ちょうどいいです」

「哀しみはネガティブな気持ちだ。ポジティブな怒りに感情が向かってきたのは、前に進めた証拠だよ」

「美砂妃さんにさえ感謝です」
 半ば自棄(やけ)になって、言葉を投げ棄てた。

「美砂妃ちゃんは、勝ち気な性格だからな」
 院長が、ほとほと困り果てたみたいに苦笑いを浮かべる。

「院長は驚かないんですか? 卯波先生と美砂妃さんの結婚」
「世の中には、政略結婚というものがあってだな」

「卯波先生も美砂妃さんも、子どものころから当たり前のように、身近で政略結婚を見てきてるんですかね」

「だな。しかし、ふつうなら愛じゃなくお互いの利益のために結婚するんだけど、両家とも必要ない」

「じゃあ、愛?」