策略家がメロメロ甘々にしたのは強引クールなイケメン獣医師

 葉と葉がこすれ合う音が、さざ波のように寄せては返す中、聞こえた言葉を思い起こすように耳を澄ます。

 院長、今なんて言ったっけ。

 スローモーションのように、そっと体ごと院長に向けたはいいけれど、そこから先は動けない。

 私たち以外の時空までも、院長はパワーで止めちゃった。

 見つめ合ったまま動かない。

 私たちの周りの風景も、絵画みたいに時が止まったまま。

 いつにも増して熱い瞳をそらすことなく、じっと見つめてくる院長に、声も出ずに顔が火照ってきた。

「聞こえたか?」
「たぶん」
「緒花が聞いた、俺の言葉は正しい、たぶん」

 私は聞こえていた、院長も聞こえていたはず。
 なのに、お互い、“たぶん”を強調した。

 院長が、嬉しさと恥じらいの入り混じった笑顔を浮かべるから、足に根が生えたようにその場に立ち尽くして動けない。

 だって驚くよ。
 いつも私に対して、遠慮なく鼻の頭にしわを集めて、げらげら笑い転げる院長なのに。

 今、目の前にいる院長は別人みたいに照れくさそうなんだもん。

「もう一度だけ聞いておくか?」
「えっ?」
「ぽかんとして、なんて顔してんだ」

 院長の顔が楽しいよって叫ぶ、人目もはばからず天真爛漫に。

「院長が大口あけて笑うから、酸素が足りなくて息ができません」
 肩で息をするくらい、本当に息ができなかった。

 いつもの院長に戻ったから、私もいつもみたいに軽口が口から飛び出す。

「そうやって笑ってろよ。俺は黙っててもいいけど、不細工は笑ってろよ」

 さらさらと出る毎度の悪態に、頭の回転も口もついていけなくて、もどかしいったらない!

「しかめっ面するなよ、緒花の笑顔は人を幸せにするためにあるんだよ」

 また視線をはずすのを惜しむように、院長が熱い視線を注いでくるから、コートの袖と指を擦り合わせて戸惑いを紛らわす。

「涙の川ができるほど大泣きしただろ。そろそろ橋を建てて、それを乗り越えろよ」

 笑顔が真顔に変わり、動物に話しかけるときとおなじ、優しい声で静かに囁いてくる。

 冷たい風に吹かれる私の凍てつく心に、院長の温情ある慰めの言葉が、日射しが静かに降り注ぐように私の心に沁みる。

「いつもは、馬鹿なことばっかり言ってるくせに」

「院長に向かって、なんて口の利き方だ。汚ねえな、鼻かめよ」

「寒いから鼻水が出てくるんです」

 瞳からも次から次に水が出てきて、困っちゃう。
 なんの涙か、ちょっぴり甘くてしょっぱい。

 この瞬間、永遠と思えるほど長く深い闇に沈んでいた錆びた心の歯車が、ゆっくりと回り始めた。

 ──気がした──