私の時間は停滞していても、命に限られた時間の子たちもいる。

 その子たちのために、私の時間を止めてなんかいられない、前に進まなくちゃ。

「よし、やるぞ!」
「おっ、気合いが入ったな」
「はい!」
「患畜の世話が終わったら保定して」
「はい!」

 満足げに頷く院長の嬉しそうな顔を仰ぎ見ると、元気をもらえる.....気がした。

 仕事が終わり、帰り支度を済ませた私を見つめる院長の表情が心配そう。

 口を一文字に結んで片眉を上げた院長は、なにか言いたいのかな。

「大丈夫か?」
「もちろん! 平気です、なんてことないです」 

「すぐに立ち直れる人のほうが少ない。無理するな。本当に立ち直ったって感じたときに、今の言葉を口にしろよ」

 ふだん、私をからかってばかりいる院長が優しい言葉をかけてくれたから、どうしていいのかわからない。

 まずい、涙が出てきそう。ここは頭の中を()にして、早く去ろう。

「失礼します」
「気をつけろよ、夜道」
「はい」
「緒花の顔面は、通報されるレベルだから」
「院長!」
「いいぞ、その調子」

 一瞬、見えない力で右肩を引っ張られた気がして振り返ったら、手も届かないところに立っている院長と目と目が合った。

 ふわりと羽毛のように柔らかな優しい表情なんて浮かべないでったら。

 叱られている犬みたいに目をそらして、とぼけて明後日のほうなんか見ちゃう私の態度は、院長から見ても不自然極まりないよね。

「凍える寒さだ、体調崩すなよ、お疲れさん」
「院長も気をつけてください、お疲れ様です」

 ラゴムを出たとたん、平気だと思っていたのに、また頭の中が卯波先生でいっぱいになっちゃった。

 今日も、また宇宙のようにどこまでも広がっていく深い哀しみに襲われ、仕事で気が張っていた心は、(しぼ)む風船みたいに一気に気が抜けた。

 私とおなじように、家路を急ぐ人たちが右往左往に行き交う中で、否が応にも目に入ってしまうのは、見つめ合いながら歩く恋人同士。

 弾むハートが、蝶々みたいに街中を飛び回り、全身から幸せを撒き散らす彼女が、嬉しそうに彼氏に寄り添う。

 彼氏が大切そうに彼女の手をつないでいる姿を、卯波先生と私に重ねて、まだ今でも幸せそうな恋人同士を見つけると目で追ってしまう。

 人ごみに、すらりと背の高い茶色い髪の姿を見かけると、常に卯波先生だと思って足のつま先にぴくりと力が入り、つい駆け出しそうになる。

 幸せそうな恋人同士のことは、目で追ってしまうのに、家から幸せそうな灯りが漏れていると寂しさが募り直視できない。