「卯波先生は、私とは違い御令息です」

「まだ家を気にするのか。御令息だなんて大げさな。第一、御令息なんて古めかしい。いつの時代だ」

 俯いていた卯波先生が、ゆっくりと頭を振る。
 なにか考えを振り落としているの?

「今までとおなじパターンだ、桃だけは違うと思ったのに」
 手に持ったカルテを軽く指先で弾く音が、寂しそうに私の耳に響く。

「俺が本気で好きになれば、相手は萎縮して尻込みして去って行く。それか金目当てで、すり寄ってくる」

 顔を上げた卯波先生が、大きなため息をついて、顔を横に背けてしまった。

「俺は......俺は、至って普通の人間なのに。もう懲りごりだ」

 感情を表に出さない卯波先生は、冷静な顔をして、不快感まで自分の中に背負い込んでしまうんだ。

「そんなに頼りないか。どんなことがあろうと、俺は桃の味方になるつもりだったのに」

 卯波先生が固く固く歯を噛み締め、頬の筋が神経質そうにキリキリ動いている。

「まだ、なにも始まってはいないが」
 変な間が空いて、入院室は時間が止まったように長い静寂に包まれた。

「別れよう」
 なにを言っているのか、頭が追いつかない。たくさん将来の話をしたじゃない。

「ダメです、もう始まってる、聞こえない」
 卯波先生を引き止め、心が壊れる現実から逃げようとした。

「嫌だ、嫌だ、嫌!」
「だから別れるんだ」

 感情丸出しの私に嫌気がさして、うんざりしたの? 凄く冷めた目で私を仰ぎ見てくる。

「家柄なんか気にしません、がんばりますから!」
「なにをがんばるんだ?」
 取り付く島もないほど事務的な声が、私の胸を締めつける。

「いきなり、どうして......」
「過去の経験を踏まえて、俺の中では熟考した上での結論だ」

「私の気持ちや感情を敏感に察しすぎです。私は単純ですったら、深読みしすぎです」

「俺のなにがわかるんだ?」

「どうして、私が望んでないことをしてしまうんですか?」

「俺が望んだことだ」
「嘘、ちゃんと理由を聞かせてください」
「俺自身の問題だ」

「どうして別れたいのか、お願いだから理由を教えてください」
「桃に迷惑はかけられない」

「さっきとは別れる理由が違う。こっちが本当の理由だったんですね」
 まだ、卯波先生の気持ちは揺れているはず。
 これこそ本音と建前。

 こんなことで別れるなんて、卯波先生が考えつくわけがない。

「私、卯波先生から、なにも迷惑をかけられてなんかいません」
「これからだ」

「嫌です! これからのことなんて、誰にもわからない」
『これからだ』と呟いた卯波先生の言葉を遮り、強く主張した。

 これからがなに? そのつど解決すれば済む話じゃないの。

「別れよう」
「卯波先生からなら負担を強いられようが、迷惑をかけられようが、私は構わない」

「とにかく別れよう」
 『とにかく別れよう』の一点張りで取り付く島もない。