それから20分もしないうちに、ヨットはエンジン音を響かせながらマリーナを後にした。
 
 彼がデッキのカバーを開けて、手品のように帆やロープを取り出して、マストや帆桁に取り付けていく様子を、私はバネの緩んだゼンマイ人形のように、ぽかんと眺めていた。

 作業の合間に、彼が言った。

「僕は悠介です。あなたは?」

「──純、です」

 姓を教えるつもりは無い、ということなんだろう。行きずりの出会いなら、きっとそれが正解なんだ。

 沖合に出れば、彼と二人きり。
 私もそれが分かっていたし、どこか期待もしていた。

 この日常から、解き放たれたい──。

 そしてヨットは、白い航跡を曳きながら、沖合に出た。

 マリーナを出るとヨットはエンジンを止めて、マストに大きな帆を張って帆走に移った。

 ヨットの帆は、大きな三角帆を組み合わせて張るもののようだった。

「これがメインセイル、船首(バウ)に張ったのがジブセイル、ジブの前で風を受けているのが、スピネーカーです」

 彼は一通り説明してくれたけど、私は呆けたような顔で、うんうんと頷くだけだった。

「四角い帆はないんですか?」

「マストが二本以上あるような大型船でもなければ、四角帆は聞きませんね」

「なぜなんでしょう?」

「向かい風のとき、三角帆なら角度をつければ前に進めますが、四角帆だと押し戻されてしまいますからね。四角帆は、荷物の多い輸送用か、マストの間にサブの三角帆を張れるような大型船だけです」

 悠介さんは笑って、そう教えてくれた。 

 帆走に移ると、世界は風と波の音で満たされた。ヨットは飛ぶように波を切って、白く輝く海面を進んで行く。

「日陰に入っていてください。日焼け止めを塗っていても、海上の日差しは強いですから」

 自分は日焼けした身体を日差しの中に(さら)しながら、彼が声をかけてくる。

 私は目を細めて、頷いた。