片桐さん──悠介さんの奥様は、表情を変えずに言葉を続けた。
「場所を変えますか? 私はここでも構いませんけど」
「私に……何を……」
「言わなければ分かりませんか? 戸田さん」
鈍く沈んだ瞳に、妖しい光が宿った。
「他家の夫と交わった、立派な不法行為です。まさか知らなかったとでも?」
悠介さんの奥様は、悠介さんより歳下で30をそれほど出ていないように見えた。
髪の長い美しい人だったけど、瞳の色は昏く沈んで、穏やかな口調の端々に灼き付くような凄みがあった。
当然だろう。
私はこの人の、最も大切なものを穢したのだから。
「妻の座」を──。
私たちは、私の出版社が入るビルから通りを隔てた、向かいのビルの一階のカフェに移動した。
編集部のスタッフもよく利用する店で、できればもっと遠くに移動したかったのだけど、奥様の「あそこでいいでしょう」という言葉に逆らえなかった。
席についても、私は俯いたまま奥様の顔を見ることができずに、テーブルに置かれたコーヒーカップをずっと見詰めていた。
黒いコーヒーが底無しの沼に見えて、私はその沼に音もなく吸い込まれていく、哀れな小動物のようだった。