雨がちな晩春から、季節は本格的な梅雨に入っていた。
 彼のオフィスから見る空も、柔らかな日差しは遠ざかって、じっとりした曇り空が多くなっていた。

「太陽が恋しいですね、伊東の海が懐かしく感じられます」

 窓の外を見上げながら、悠介さんが言った。

「今も週末は伊東で過ごされているのですか?」

 彼と出会った伊東の海は、柔らかな春の日差しに包まれていた。

「雨に打たれながら海に出るのは御免ですよ。冷たいし、海は気難しくて、くすんだ色をしている。レースでもなければ晴れの日以外、船には乗りません」

「ヨットのレースにお出になられたことがあるのですか?」

 私の問いかけに、悠介さんは白い歯を見せた。

「ほとんどは仲間内の、和気あいあいとしたものですけどね。でも10年ほど前に一度だけ、日本からグアムまでの本格的なヨットレースに参加したことがあります」

 少し得意気な、子供のような笑顔を見せる彼につられて、私もこんな提案をしていた。

「では、次のコラムはそのレースの話をお願い出来ませんか?」

「──純さんは、僕を乗せるのが上手ですね」

 悠介さんはそう言って、また笑った。

 悠介さんのコラムの反響は上々で、編集部には彼宛のファンレターやプレゼントが届くほどだった。
 私は打ち合わせを兼ねて、そんな彼宛の郵便物を彼のオフィスに届けに来ている。

 悠介さんは多趣味で博識で、語り口も優しい。
 彼のコラムは、彼の飾らない人柄が言葉の端々ににじみ出ていて、いつしか私も、彼の原稿──実際はテキストファイルが私のPCに届くだけの、味気無いものだけど──を楽しみに待つようになっていた。

 悠介さんが、あの包み込むような笑顔を浮かべながら、こんな楽しいお話でもてなしてくれたなら、それだけで大抵の女性は彼に恋してしまうだろう。 

 私は自分のことを棚にあげて、そんなことを考えていた。

 すると悠介さんが、少し恥ずかしそうに鼻の横を掻きながら、切り出した。

「純さん。この後、食事をご一緒してもらえませんか?」

「……」

「僕はあなたともう一度、触れ合いたい。駄目でしょうか」

 私は微笑んで、応えた。

「嬉しいです、悠介さん」

 私は立ち上がると、彼に歩み寄って、そっと口付けした。

「そう仰ってくださるのを、お待ちしていました」