「左衛門佐様」 

 いきなり名を呼ばれ、幸村は僅かに眉を動かしたが、穏やかな気色のまま「如何したか」と訊いてきた。

「左衛門佐様は、お城の外に出ようとは思われなかったのですか? 徳川内府は、帰順すれば左衛門佐様に、信州一国をあてがうと云われたと聞き及びます」

「──それを訊いて、何とする?」

 鼻先で嘲笑うかと思ったが、幸村は存外、真面目な顔でこちらに問い掛けてきていた。
 
 小児でも判る露骨な離間策だった。

 最初から家康は、幸村の離反など当てにはしていない。離反の噂を大坂城内に流布させ、城内に残る者共に疑心暗鬼を生じさせるのが狙いだった。

 実際、後藤基次や長宗我部盛親と云った牢人大将はともかく、淀君や大野治長を始めとした豊臣家の者共は、見苦しいほどに動揺した。

 そんな、禄に信頼もされていない相手に対して幸村は、

「豊家には御恩がある故、いまさら寝返るなど思いもよらぬこと。ただ最後の刻まで、秀頼公の御前に馬を進めるのみ」

 などと、儒者めいたことを口にする。
 
 急に苛立ちを覚えた。
 馬鹿馬鹿しくなった、と云い換えてもいい。
 
 それほど命を惜しまぬのなら、その命、この手で刈り獲ってくれよう。 

「お情けを下さいまし、左衛門佐様」

 精一杯の甘え声で囁いて、幸村の胸板に頬を押し付けた。