小鳥遊さんと出会ったのは、私がまだ夢と希望に溢れていた、保険会社の入社式の日だった。

 その保険会社では、社内のイベント事にはいつもホテルの宴会場を利用しており、それがたまたまヘルメース・トーキョーだった。

 入社式の朝、電車が遅延を起こしたせいで、私は予定よりもだいぶ遅れてホテルに到着した。きらびやかな世界に一瞬、足がすくんだ。入社式が行われる宴会場を探そうと、きょろきょろと視線を宙に彷徨わせたその時——。
 
「お客様。もしかして、本日の入社式にご出席でいらっしゃいますか?」
 
 声をかけてくれたのは、ホテルの制服を着た男の人だった。私が会場を探しているのに気がついてくれた。着慣れないスーツ姿で新入社員ぽさ満載だったからだろう。
 
「あ、はい……。ちょっと遅れてしまって。花鳥生命保険(かちょうせいめいほけん)という会社なんですけど……」

 握りしめていた案内状を彼に見せる。

「もうすぐ始まってしまいますね。少し急ぎましょう。私に着いて来ていただけますか」

「えっ、は、はい!」
 
 彼は私の少し前を先導するように歩きながら、人気(ひとけ)の無い一角にある扉の前まで来ると、辺りをキョロキョロと見渡した。
 
「……ここから先は、堂々としていてください」

 それだけ言うと、扉を開けた。
 扉の向こうはホテルの、つまりは従業員用の通路になっていて、彼は何でもないような涼しい顔をして歩を進める。何人か他の従業員とすれ違ったけれど、「堂々と」していたおかげか誰も私を怪しまなかった。
 
 彼に先導され、エレベーターに乗り込んだ。他には誰も乗っていなかった。

「エレベーターを降りたら、会場はすぐそこです。間に合って良かったですね」

 そう言って、彼は微笑んでみせた。

「本当にありがとうございます……。とても助かりました」

 どういたしまして、と彼は笑った後、ああ、でも。と、付け加えた。

「このことは、内緒にしておいてくださいね。本来はお客様を裏導線にお連れしてはいけないことになっておりますので、今日のことは、あなたと私だけの秘密ということで。お願いします」

 そう言って、彼は自分の口元に人差し指をあてる仕草をしてみせた。
 
「もちろんです、誰にも言いません、私。絶対に。約束します」
 力強く答えると、彼は可笑しそうに表情を緩めた。
「それは助かります」
 
 その笑顔は、先ほどまでの隙の無いホテルマンのものとは違う、親しみのある柔和なものだった。

 もう少し。もう少しだけ、この人と話したい。そう思った。
 
「あ、あのっ」
 
 ——ガコン、と大袈裟な音を立ててエレベーターが停止した。
 
「着きましたね。さあ、行きましょう」
 
 そのまま彼の後について会場へと向かった。

「それでは私はここで失礼します。どうぞ、行ってらっしゃいませ」

 彼は会場の扉の前で深々と頭を下げた。その姿は、元の隙の無いホテルマンに戻っていた。
 
 私はあの時、彼に何を言おうとしたんだろう? 
 去り際になんとか彼の名札を覗き見た。でも、何と読むのかがわからなかった。名前くらい、聞いておけば良かったと、ものすごく後悔した。