フロントカウンターから顔を上げ、視線の先にあるガラス張りの一角に目をやると、そこに「彼女」の姿はあった。

 三橋桃花(みつはしももか)、二十六歳。ヘルメース・トーキョーのロビーに店を構える花屋、「桐谷生花(キリヤせいか)」(通称キリヤ)の店員だ。彼女がここで勤務し始めたのは一年程前。それまで勤めていた別の店員との交代、ということだった。三橋さんがヘルメースへ来る以前はどこの店舗にいたのかとか、彼女が正社員なのかアルバイトなのかとか。とにかく彼女のことを俺はほとんど何も知らない。知っているのは名前と年齢くらいだ。それに引き換え、馬場(あいつ)ときたら。自由にロビーを動き回れるベルスタッフなのを良いことに、しょっちゅうキリヤにも顔を出しては、三橋さんに声を掛けている。ここからでは何を話しているかまではわからないが、三橋さんも笑顔を見せているのはわかる。気になる。ものすごく気になる。そして、ものすごく羨ましい。
 
 俺はここから見ていることしかできない。毎日、このフロントカウンターの中から、あのガラス張りの向こうにいる彼女のことを。あのガラスはさながら、彼女と俺の間に隔たる、どうしても越えられない厚い壁のようだな、と思う。

 今日もまた、馬場はコミュニケーションの一貫だなどと言いながら、三橋さんの元へ行くのだろう。
 
 あの壁を、ひょいと、いとも簡単に飛び越えて。