「伊藤店長、ありがとうございます。これ、お返しします」
 
 スマホの液晶画面をハンカチで拭ってから、キリヤの伊藤さんへ返す。彼女がかけた電話の相手が三橋さんだとわかって、思わず代わってほしいと頼んでしまった。三橋さん、驚いてたな……。当たり前か。
 



 遡ること三十分前。

「支配人、片桐(かたぎり)様からお電話です」

 フロントカウンターにいると、内線で電話が回ってきた。片桐様というのはお得意様の一人で、ヘルメース・トーキョーを常宿(じょうやど)にしてくださっている六十代の女性だ。以前はご夫妻で泊まりに来ていたのだが、二年程前にご主人が他界された。上品で穏やかなお二人は、俺がまだ新米だった頃から何かと気にかけて可愛がってくれた。

 いつだったか、片桐様ご夫妻と話をした折に、お二人ともストレリチアがお好きだと聞いた。ストレリチアは極楽鳥花とも言い、その名の通り見た目がまるで極楽鳥のような姿に見える花だ。お二人は元々アメリカ出身で、向こうでご結婚された。ストレリチアが庭に自生する家で、愛を育まれた。その後、仕事の都合で各国を転々とされたそうだが、ストレリチアの咲く懐かしい庭が、いつまでも忘れられないのだそうだ。

 その話を聞いた翌日、キリヤに問い合わせるとタイミング良くストレリチアが入荷していた。特に頼まれたわけでもないが、俺はストレリチアを二輪、花瓶に入れてお部屋に置いておいた。外出から戻られたお二人はたいそう喜んで、以来うちを常宿にと選んでくれたのだ。
 
 片桐様の先予約はまだ入っていないはずだ。宿泊の予約は基本、リザベーションスタッフが受注するし、予約が入れば俺のところにも連絡が来るようになっている。
 
「片桐様、小鳥遊でございます。お電話ありがとうございます」

「小鳥遊さん、こんにちは。ごめんなさいね、お忙しいのにお電話代わっていただいちゃって」

 片桐様の声を聞くのは数ヶ月振りになる。相変わらずお元気そうで安心した。

「いえ、とんでもないことでございます。お声が聞けて嬉しいです」
 
「ありがとう。あのね、今日の到着時間なんだけれど、仕事が早く片付きそうでね、十六時頃になりそうなのよ。私、予約の時に到着は夜になるってお伝えしていたから、お部屋の準備大丈夫かしらと思って」
 
 今日の到着だって?

 俺は不思議に思いながら、目の前にあるパソコンで片桐様の名前を検索した。やはり、予約は入っていない。まずい。こういうことは起きないこともないが、ゲストが予約をしたつもりになっている場合と、ホテルスタッフが予約を入力し損なっている場合とが考えられる……が、とにかく、ゲストに不安を与えてはならない。
 
「かしこまりました。それでは十六時のご到着ということで、お待ちしておりますね」

 さも予約が入っているかのごとく、振る舞う。

「ありがとう。楽しみにしてるわね」