境界線を越えたくて

 翌日、ひな祭りの昼休み。今度は俺が彼女を知ることができる番。

「水沢さんには今、好きな人がいますか?」

 無難な質問から攻めようと決めていたのに、口が滑るというのはこれのこと。彼女の心がどこにあるのか知りたい気持ちが前に出た。けれど彼女は「いない」と言った。

「本当?」
「ほ、ほんとほんとっ」

 ふうんと鼻を鳴らし、話題を変える。

「好きな食べ物は?」
「いちご、かな」
「苦手なものは?」
「セロリ」
「俺の下の名前知ってる?」

 おいおいと自分の頭を(はた)きたくなるほどに、またもやつるっと滑る口。

「瑞樹」

 正解を熱望していたのに、正解を言われれば今度は俺が赤面しそうになった。顔を隠したいと即座に思ったが、そんな不可解な行動は彼女を戸惑わせるだけだから、俺は手すりの上に乗せていた腕へことんと頭を落とす。
 ぽつり、呟きたくなったのは君の名前。

「乙葉」

 愛しい愛しい君の名は耳元の空気に居座り続けると、何度だって反芻(はんすう)された。

「水沢さんは乙葉で合ってる?」
「ど、どうして知ってるのっ?」
「内緒」
「へ?な、内緒……?」
「うん、内緒」

 好きだから知ってるんだよ。だけどそれは教えられない。