※※※



「よく眠れた?」

「うん。……ありがとう、お母さん」


 私の目の前にお茶の注がれたグラスを置いた母は、「そう、なら良かった」と言ってニッコリと微笑んだ。

 あの日、始発が始まる時間帯を見計らって自宅を飛び出した私は、たいした荷物も持たずに実家へと帰ってきた。
 会社にいる同僚達には申し訳ないが、とてもじゃないが出勤する気力も体力もなく、消化していなかった有給を使わせてもらうことにした。

 それは里美も同じだったようで、昨日は一日有給を使ったらしい。
 私に付き合ったせいであんなに怖い思いをさせてしまったと思うと、里美には謝っても謝りきれない。


「せっかく帰ってきたんだし、久しぶりに一緒にお父さん見ようか」


 ふわりと優しく微笑んだ母は、そう告げると一枚のディスクを取り出した。

 私の父は、まだ私が幼かった頃に他界している。あまりに幼かったせいか……正直、父の記憶はあまりない。
 けれど、私が落ち込んだり何かに挫けそうになると、こうして母は「一緒に見よう」と誘ってくるのだ。

 そんな母が未だに父に囚われているようで嫌だった私は、今まで一度も一緒に見ることはなかった。
 なにより、自分の記憶にないモノを見せられることで、私の中に父はいないのだという現実を突き付けられる気がして嫌だったのだ。


「……うん」


 私の口から出たその返事に、母はとても嬉しそうな笑顔を見せた。
 自分でも、何故そんな返事を返したのかはよくわからない。けれど、なぜか無性に父に会いたくなったのだ。

 流れ始めた映像を見ていると、里美からの着信に気が付き、通話ボタンを押すと携帯を耳に当てる。


「はい」

『澪……っ! ニュース見た!?』


 焦ったような里美の声音に、何事かと驚きながらも口を開く。


「見てないけど……。何かあったの?」

『澪の住んでるマンションで火災だって! 昨日……いや、今朝? とにかく、沢山の人が亡くなったみたい! 澪の住んでる3階は特に被害が酷いって!』

「……えっ?」

『老朽化による漏電が原因じゃないか、ってニュースで言ってる! それより時間! ……あの時間なんだよっ! 火災があったのって、夜中の2時23分頃だって言ってるの……っ!』

「……っ……」


 携帯を握りしめた手をゆっくりと下ろすと、目の前の映像を見つめる私は涙を流した。


『……澪! ねぇ、聞いてる!?』


 握りしめた携帯からそんな里美の声が漏れ聞こえるが、私は流れる映像から視線を逸らす事ができなかった。


「っ……、ありがとう……お父さん」


 テレビ画面に映し出されている父に向けて、私は小さな声を溢しながら号泣した。

 あまりの恐怖から、『殺す』と聞きとってしまったあの声。
 テレビ画面から聞こえてくるその声に、私はあの時の言葉をよくよく思い返してみた。

 あれは——決して、『殺す』なんて言ってはいなかったのだ。


『ここからにげろ、いますぐ』


 あの時聞いた声は、確かに父の声だった。




 ——完——