「覚えてるわ。あのときは、あなたを深く傷つけてごめんなさい。今思えば、あなたの優しさに甘えていたのね。決して強い刺激はないけど、あなたには安楽があったの。あなたみたいな誠実な男と結婚すべきだったわ」

「もう昔のことさ。君が今うまくいっているならいい」

「うまく…いってるのかしら」

 彼女は伏し目がちにぼそりとひとりごとのようにつぶやいた。

「あなたはまだ独り身?」

「うん。でも恋人はいる」

 彼女の瞳が一瞬揺らいだような気がした。

「そう。一緒にいてくれる人がいるのね。じゃあ、私会社に戻るから」

「ああ。また」

 帰る方向が逆のため、俺たちは洋食屋の前で別れた。俺が彼女に背を向けて歩き始めたとき、反対方向に歩いているはずの彼女の声が背中に聞こえた。

「啓之」

 元恋人の俺を呼ぶ声に振り向く。

「啓之は、今幸せ?」

「ああ、幸せだよ」

「そう。良かった」

 そう言って微笑む彼女はなんだか悲しげに見えた。彼女は今、幸せではないのだろうか。

「ごめんね、引き留めて」

 彼女は前に向き直り俺から遠ざかっていった。

 久しぶりに会った彼女の言葉の端々にどこか陰りがあった。