桶を挟んで向かい合うように座る私たちは、互いに表情をくずしてほっと一息つく。
 浪士さんは、私がしきりに感謝を述べるのでなんだかこそばゆいような、照れたような笑みを浮かべ、頬を掻いた。


「もう陽も落ちて、そろそろ夜だし……アレだな」

「あ、そうですね」

 そろそろ本題に話をつけて、帰路につきたい時間帯だ。
 中断していた会話を再開しようと私が口を開こうとしたその時、大きな水しぶきと共に浪士さんが川へと飛び込んだ。

「ちょっと待ってろよ!」

 そう言い残すと、ざぶざぶと音を立てて橋の方へ突き進んでいく。
 まだかすかに空の端に色が残ってはいるものの、あたりはすっかり夜の闇に塗りつぶされようとしている。
 みるみる遠ざかる浪士さんの背中は、まるで影絵のように薄闇の中に浮かび上がっている。

「……魚、釣りに行ったのかな?」

 けれど、竿はここに置いたままだ。一体何をするつもりだろう。


 ――ばっしゃあっ

 彼が立っているあたりの場所から、勢いよく水音が上がる。

「おーーいっ! 桶持って来てくれっ!!」

 全身黒い縁取りで表情も見えない浪士さんが、声を上げる。
 静かに流れる夜の川と、さらりと柳を揺らす冷たい風に少しばかり寒気を覚えつつ、私は釣り桶を抱えて声の方へと駆け出した。

 浪士さんの目の前まで来ると、ようやく状況が把握できた。
 大きな岩を少しだけ持ち上げ、川底との間に隙間を作るように足で固定している。

 ――そして、両手で力強く握りしめているのは、うねうねともがくようにその身を動かす……

「……うなぎ、ですか?」

「おうよ。このあたり、結構とれるって聞いてたからよ」

 得意げに胸を張ると、浪士さんは私が持って来た桶の中に、そっとうなぎを放した。

「すごいですっ! 手づかみなんて……! すごい、すごいっ!!」

 そのまま料理してお店で出せそうなほどに立派に太った鰻を見て、桶をぎゅっと抱え込みながら浪士さんに尊敬のまなざしを向ける。

「まぁ、慣れりゃあ簡単なもんだぜ。そいつはおめぇにやるよ。蒲焼きにでもして食ってくれ」

「えっ!? いいんですか……!?」

「おうよ。そのかわりと言っちゃなんだが、アレだ。ほとがらだ」

「あ、はい……そうですよね。返さなきゃいけないですよね」

 これまでの会話から、この人が写真の持ち主だと半ば確信はしている。

 ……何より悪い人ではなさそうだし、これ以上疑ってかかるのも忍びない。

「――いや、ちょっと待ってくれ。もちろん返してもらうつもりなんだがよぉ……おめぇ、正直まだ疑ってんな?」

「いえ……! あの、話を聞いてたら本当に写真の人かもって……」

 慌てて首を振り、取り繕う私を見て、浪士さんはからからと笑ってみせる。

「いや、そんなビビんなって! 疑ってもらって実は結構嬉しかったりするしな……だからよぉ、確かに本人だって証拠に、明日またここに来るわ。仲間連れて」

「仲間……?」

「中岡さんは忙しいだろうから、まぁハシさんかな。二人でまた来るからよ。そしたらさすがに信じるな?」

 思わぬ提案に、私は胸を高鳴らせながらこくこくと大きくうなずく。

「し、信じます! あの、橋本さんが写真通りのお顔なら……!」

「安心しろ! ハシさんはほとがらそのまんまだ! 一発で本人と分かる!」

 くすりと小さく笑ったあと、自信ありげにぐっと握った拳を突き出す浪士さんを見て、私も静かに笑みを返す。

「そういうことなら、分かりました。また明日もここに来ますね!」

「おうよ。明日の夕方ごろ会おうぜ!……ちなみに、おめぇ名は?」

「天野美湖です!」

 並んで川の中を歩きながら、心なしかどちらもはずんだ口調で言葉を交わす。
 すっかりあたりは暗くなり、足元もよく見えない。


 先ほど腰かけていた場所まで戻って川岸に上がると、一仕事終えた達成感からか、二人して大きく息をついた。

「そんじゃ、また明日な」

 一通り話がついて互いに言葉少なになると、通り抜ける風の冷たさに小さく身震いをして、浪士さんは軽く手を振りその場をあとにしようとする。
 まだ聞きたいことが残っている私は、きびすを返した彼の着物の裾を掴んで、あわてて引き止める。

「待ってください! まだあなたのお名前聞いてないです……!」

「おお、やっぱ名乗っといた方がいいか?」

 若干面倒くさそうに頭を掻くと、浪士さんは明らかに気乗りしない様子で苦笑する。

「それはそうですよ! 教えてくださいっ」

「まぁ、ハシさんや中岡さんの名も知られちまってるし、いいか……田中だ、ヨロシクな」

「田中さん……! はいっ! 明日もここで釣りしてますから、またお会いしましょう!」

「おう。んじゃな、暗いから気ぃつけて帰れよな!」

「はいっ!」

 はじめは怖くて仕方がなかったけれど、話をしてみると田中さんは悪い人ではない。


(むしろ、優しい人なのかも……)

 振り返ることなく暗い路地の奥へと駆けて行く田中さんの背中を見送って、桶の中へと視線を落とす。
 鰻までもらっちゃったし、明日会う時は何か私もお礼した方がいいかな……。

『また明日』なんて約束をしたのは幼い時分以来で、なんだか不思議な高揚感がある。

 ――明日が待ち遠しいな。

 三人全員の名前も分かったことだし、今日はずいぶんと収穫が多かった。
 スッキリと晴れやかな気持ちで、釣り竿と桶を持って帰路につく。
 いつもなら怖くて避けて通る柳の下をすいすいと走り抜け、鼻唄まじりで夜空を見上げる。

 明日は、橋本さんに会えるな――。
 一体彼はどんな人なんだろう?
 もし時間があるようなら、田中さんと一緒にいずみ屋に招待したいな。
 かすみさんにも会わせてあげたいし。

 あれこれと思いを巡らせながら、入りくんだ路地を小走りで抜けて行く。

 私の勝手な言い分ですぐに写真を返せなかったのは少しだけ申し訳ないけれど、明日にはこの持ち主探しにも決着がつけられそうだ――。