テスト最終日。HRが終わり、あっという間に教室は私1人。
この日はどこも部活動をしていない。学校に音が無くなる数少ないうちの一日。

家でゲームをする、近くのショッピングモールに寄るなどして、みんな自分の青春を作っていく。
将来話す思い出としてそれは少しずつ形になり、世界に色をつけていく。

職員以外はもう残っていないであろう学校は、やけにしんとしていた。近くで鳴っているはずの蝉の声は、もっと遠くで鳴っているように聞こえる。

私一人が取り残されたような感覚。
別世界にいるような。



体育館。

窓を開けて、腕につけていたゴムで髪を結んでしまえば、もう私は自分のためだけに、好き勝手に生きられる。

バスケットボールが入ったワゴンが置きっぱなしになっていた。その中から1つボールを取って、スリーポイントになる位置に立つ。
視界の中心にゴールを捉えると、そこに全神経が集中する。遠くでなる蝉の音も、かすかに吹く風も何も感じなくなって、目の前のゴールしか見えなくなる。

軽いジャンプとともに投げられたそれは、一切ゴールに引っかかることなく綺麗にネットを通り抜けた。
真夏とは思えないほど涼しい風が吹く。その風を腕で遮るようにしながらゴールの下へ目を向けると、小さくバウンドするボールが目に入る。自分でも分からない謎の安心感に包まれて、ようやく手を下ろした。

大丈夫。私はまだできる。


「……ほんとに綺麗なシュートだな」


私の世界へとサラリと入ってきたその声で、ハッと我に返る。

「……日比谷先輩」

「いやほんとにさ、そのシュート完璧に打てんのになんでマネ選んだの?」

単純な疑問だったのだと思う。だけど、本当は彼も知っているはずのこと。それがただ切ない。
やらないのではない。『できない』のだと言いたかった。
でも、『私』のせいで『私』を忘れてしまったこの人に、そんなこと言えるはずがなかった。


「……見てる方が好きなので」

「嘘だろそれ。澄花、自分のシュート好きだろ。お前楽しそうで、いつもと違う顔してんじゃねーか。3Pをそんな簡単にキメれるやつ他のどの国行ってもいねえ。それ、お前わかってんだろ」

私が必死で絞り出した理由は即論破された。
責めているわけではない。私に選手をやって欲しいと、彼は悪気なくただ純粋に思っているだけなのだ。
それがまた、しんどい。

「ま、別に言いたくないならいいけどな。秘密は誰だってあるか」


そう言って彼は荷物を体育館に置いた。そしてすぐに私の横でスリーポイントシュートの練習を始める。
真っ直ぐ、真剣に見つめてくる凛とした瞳。その視線の行先が変わったことにほっとする。
テスト期間でしばらく触れていなかったそのボールに触れられたことがとても幸せそうで、そして1週間の休みがあったことを感じさせない抜群の運動神経に感動し、逆に私が見つめてしまう。流石キャプテン。

「……日比谷先輩、受験生でしょう。今日ぐらいはみんな遊びに行ったりすると思うんですけど。青春しなくていいんですか」

「んー……まあこれも、青春だろ」

「……え?」

「俺さ、最高だと思うんだよな。学校の中に生徒が2人しかいない。そんで偶然見つけたらその子が超綺麗な女子。このシチュエーション完璧だろ。エモすぎ」

笑う彼を見て、私は混乱する。
この空間で、こんな会話をする私たちのどこが青春なのか、私にはよく分からない。どこにでもありそうな日常のほんの一コマを切り抜いたらこうなっただけではないのか。

「ボーリングとかカラオケとか、幼なじみと花火して……みたいな、夏らしい青春っていっぱいあるだろうけど、反対に静で美しい時間だってあるだろ。例えば夜景とか。そういう時間が俺の理想の青春。青春の定義なんて人それぞれだし、自分がそうだと思えたらそれでいいんだよ」


昔から何も変わっていないその姿が嬉しくて、でも何も無かったかのように、またゼロからになってしまった私とこの人との距離感が苦しくて、泣きそうになるのを必死でこらえた。
変わったのは彼や私の性格じゃない。彼の脳と私の身体が変わっただけ。運命が私達を変えただけ。ただそれだけの話。
白紙に戻されてもう3年が過ぎた。
この3年を、彼は彼なりに埋めてきた。色鮮やかに、アクリルガッシュで色を付ける。雨が降っても色褪せることなく、輝き続ける。
白黒の世界に取り残されたのは、私だけ。

また、風が吹いた。
彼の揺れる黒髪と、笑う顔が輝いて眩しい。背景になっている体育館の茶色の壁ですら綺麗に見える。
私の世界が彩られていくのが、嫌というほどわかった。


「……たしかに、ありかもしれませんね」

「だろ。あ、なあ澄花見ろよこれ」


シュートをやめて彼はポケットからスマホを取り出す。

「なんですか?」

「じゃじゃーん!!」


ドヤ顔で見せてきた彼のスマホの中には、私がいた。さっきシュートしていた私の姿がアップで、しかも連射で何枚も撮られていた。
光のノリが良かったのか、別人のようだった。


「いやあ、我ながら素晴らしい出来。俺カメラマン向いてる??この横顔も背景も風の吹方も俺に味方してくれたなこれ」

「ちょっと!!消してください!」

「やだよイン〇タに載せるもん」

「それ絶対ダメ先輩の彼女に殺される」

必死で彼のスマートフォンに手を伸ばすが、身長差もあり、あっけなくかわされてしまう。彼のスマフォの中に私がいるなんて許せない。彼女さんがじゃなくて、私が。

「残念俺彼女いないんだよねー」

「彼女はいなくてもセ○レはいるでしょう。それに著作権です」

「いねえわんなもん勝手に女たらしにすんな」

「嘘ですねそれ」

「嘘じゃねえって!まあ落ち着け、澄花の好きなクレープ奢ってやるから」

その言葉に、手の動きが鈍くなるのが自分でもわかってしまった。

「……それ誰から聞いたんですか最近私のストーカーですよね??」

「いやあストーカーじゃねえと思うんだけどなあ、なんか脳が、澄花の好きなクレープ知ってんだよね。なんでだろうなこれ、今ガチで疑問なんだわ」

……ああ。
神様はなんて酷いのだろうか。
本当なら、出会いたくすらなかったのに。
私の白紙の世界にまた踏み込んできて、水彩色鉛筆で色を付ける。

「……澄花?どした?」

覗き込んでくる彼の目と私の目が合う。
無理にでも笑顔を作ってみる。

「じゃあ、私ふたつ頼むので!」

「はっ?!お前後輩だろそこはひとつにしとけって」

「最初にいくつとは言われてないので」

「ほんと容赦ねーなーモテねーぞ太るぞ」

「モテたいわけじゃないですし好きなもん食べて太んのは当然ですよ明日からダイエットします」

荷物を手にして体育館から出る。
「おい待てって!」と焦る声が聞こえてきて、ふふっと笑う。

「早くしないと先行っちゃいますよ!!」

私が無理を言ってお願いしたはずが、今は彼にとって知らない間に手放せないものになってしまったその黒髪も、めげずに何度も何度も私に声をかけてくるその強さも、埋まるようで絶対に埋まらないあの頃の距離も、毎回違った美しい世界を描くのも、全てが懐かしくて、切なくて。

そして、どんな姿でも、どんな形になっても好きだと、脳が、心が叫ぶのだ。


彼が幸せならそれでいい。彼がこの世界で笑っているのならそれでいい。
それだけで、今は十分だ。



その想いがひとつの形になって、私の目から、一筋の雫が零れた。