「ホント、確かにブイヤベースに合うわネ」

 この時、頭ではどんなにあの闘い前夜を思い出しても、タラの心は不思議と痛まずにいられた。そんな過去を彼女は話すどころか触れもしなかったが、シアンもそれを感じ取ったように、タラのプライベートに関わる問い掛けは一切しなかった。

 その代わりに自分の過去を少しずつ語っては、手元のグラスを空けていく。小さい頃から入れられた、伝統を重んじるパブリック・スクールの厳格な寮。たまの休みに帰っても、伯父の家もまた同じ雰囲気を保ち、自分には息の詰まる場所であったこと。それを気にも留めない従兄に敬服していたこと……そんな中でも隠れて描き続けたデザイン・ノートは宝物で、幾つものオフィスに持ち込み続けた。やがて認めてくれたデザイン会社で、陽の目を見られた二十代半ば。脚光を浴び始めた二年前。それでも今も、創作ノートは常に手元から放さないこと!

「ああ……もちろん仕事の時だけだよ」

 そう言って「今この場所には持ってきていない」のだと言い直したシアンの頬が、仄かに赤みを帯びていたのは……日暮れてきた空の所為だろうか?

「……タラ、ヨ」
「え?」

 シアンのグラスにおかわりを注ぎながら、タラはぽそりと呟いた。

「ワタシの名前。タラっていうの。こんなに自分のことを語ってくれた相手に、もうすれ違っただけなんて言えないわ」

 ただ名前を教えただけなのに、タラの頬もまた陽に照らされながらはにかんでいた。

「やった! 名前ゲット!!」

 喜びに思わず立ち上がったシアンが、タラの目の前に(ひざまず)く。驚き固まるその右頬に、温かな手が添えられた。

「タラ……とても君に合った名前だね」
「ありがと……」

 ──ティーナと呼ばれていた時代は、それが似合う自分だったのだろうか?