「食事は? もう済ませた?」
「いいえ、まだ食前酒と前菜だけヨ」

 青年はそれを聞き、軽く後ろを振り返った。先程のウェイターがその気配に気付き近付いてくる。タラには聞こえないよう何かを伝え、再び満面の笑顔で彼女を見詰めた。

「そう言えば、名前を教えてもらってない。僕はシアン。綴りは「C」「Y」「A」「N」」
「あら、色の名前なのネ。その瞳から名付けられたの?」

 シアンとは鮮やかなブルーグリーンの名称だ。まさしく彼の瞳の色だった。

「そう、その通り。で、君の名は?」
「旅ですれ違った人には教えない主義なの。ゴメンナサイ」

 タラはデカンタに残った水をグラスに注ぎ、一口含んだ。その硝子の先には──驚いたように丸くなるシアンの瞳があることを認めながら。

「すれ違っただけ? これから一緒に食事をするのに?」
「食事をしても、明日には見知らぬ者同士ヨ。むしろ知らない方が楽しい思い出になるでショ?」

 左手で頬杖を突いたタラは、上目遣いで考えを巡らせるシアンの答えを待った。やがて──

「ああ、分かった。まだ僕を警戒してるんだな。怪しい者じゃないから心配しないで。僕のラストネームはエヴァンス。「シアン=エヴァンス」って聞いたことない?」
「有名人なのネ? ゴメンナサイ、残念ながらワタシ新聞も雑誌も読まないの」

 そうして視線を逸らしたタラは、遠く眼下を占める、彼の瞳の色と同じ海を目に入れた。

 ──シアン=エヴァンス。

 この時タラはその名を知っていた。

 確かイギリス人で、新進気鋭のファッション・デザイナーだ。よっぽど自身がショーに出た方が良いのでは? と思わせる程のスタイルと容姿を持ちながら、飽くまでも着せることに情熱を捧げる──まさかこんな所でそのような人物と遭遇するとは。けれど知らない振りをしたのは正解だったのかも知れない。衣装をきっかけに染色が話題に上れば、おのずと自身の知識が滲み出てしまいかねない……タラは咄嗟に取った自分の対応に、知らず安堵の息を洩らしていた。