ネオン色が咲き乱れる夜。
 会社から数駅離れた場所で、私はぼんやりとその景色を眺めながら立っていた。
 人の行き来が多く、過ぎ去るように談笑が飛び交う。金曜日の夜だから、会社員と思しき人々は、心が解き放たれたような顔をしているように見えた。少なからず、私もその一人。
 だけど、今はとてつもなく心臓がどくどく跳ねていて、手汗もひどい。十二月の寒さなんて、どうでも良くなるくらい。
 なぜなら、今日は東さんとディナーの約束をしている。
 正直、最初は社交辞令化と思った。私と違って東さんは社内で有名で、営業の成績もよくて、顔もすごく整っている年上の人。そんな人が、辛うじて女をやれている私と食事をしたいだなんて、想像もしないから。
 本当に、どうして私なんだろう。
 社内には、もっとかわいい人はたくさんいるのに。
「ごめん、お待たせ」
 駆け足で現れた東さんに「私もさっき来たところなので」と、よくあるセリフを吐いてみる。どうやら定時予定だったが、急用で少し残業になってしまったよう。営業は大変そうだなと、ほとんどの日を定時で上がれている私は思った。
 辺りを見渡せば、ビルやおしゃれな施設が建ち並んでいて、視界に入る限りでは敷居が高そうなレストランばかり。よくよく考えれば、おしゃれで食通なら当たり前のことだった。
 私、こういうところ苦手なんだけどなぁ。
 緊張するし、どうやって食べればいいのか悩まされるし。
 そう懸念を抱いていたけど、ビル群を通り過ぎて小道に入る。たどり着いたレストランは、少しばかりこじんまりとしているけど、とてもおしゃれなレストランだった。
 店内はレンガのヨーロッパ風で、薄橙色の照明が落ち着いた雰囲気を醸し出す。席につくと手書きのメニュー表とその写真が張られたバインダーを渡され、いい意味でレトロなお店だと思った。
「こういうところのほうが、山下さんは好みかなって思って」
「よくわかりましたね」
「まあ、俺がこういう店が好きなだけってこともあるけど」
 ニッと東さんは笑みを浮かべ、そうなんですねと私もつられて笑ってしまう。目じりの小じわが愛らしく、これは女性陣が悩殺されるのも納得だった。
 事前に予約してくれていたらしく、出てきたコース料理はどれもおいしかった。特に、あの豚肉は最高だった。分厚く柔らかくて、あの白いソースが何なのかは分からなかったけど、とにかくおいしかった。
 東さんと過ごす時間は、正直楽しいなと感じている。
 立場の違う人だと思っていたけど、会話のテンポもあって、甘いもの好きなところも同じ。今日もデザートではしゃいでしまったけど、東さんは引かずに話を聞いてくれた。何なら私よりも詳しいから、勉強になるくらい。
 緊張なんて、いつの間にか忘れ去られていた。
 ほぼ初対面の方とこんなにも解けたことなんて、幼馴染の京ちゃんくらいしかなかったのに。それも、小学生の頃のこと。
 友達になれたら、きっと楽しいんだろうな。
「山下さん」
「はい」
「今度また、二人でどう?」
「はい、ぜひ」
 笑顔で頷く。今度はどんなおいしいお店に連れていってくれるのだろうか。それか次は、私のおすすめを紹介するのもありだなぁ。
 そうやって私の中で楽しみを膨らませていると、視界の片隅で、東さんが困ったように眉を顰めているのが分かる。
 浮かれすぎて引かれただろうか。不安になって声をかけてみると、「分かっていなさそうだから、あらかじめ言っておく」と彼は一つ咳払いをしてこっちを見つめる。
「俺はただ、君と一緒にいたいだけなんだ」
 姿勢を正し、栗色の瞳はとても真っ直ぐ私を捉えていた。私は、つい視線を外してしまう。
 どういう、ことだろう。
 一緒にいたいだけ。
 それは、友だちとして?
 それとも、男女として?
 いや、本当は後者なんじゃないかとは思っている。だけど、どうして私なんだろう。明らかに、東さんと私とではつり合っていないのに。
「休日に、どうかな?」
 少し前のめりになり、問いかけてくる。でも私はいっそう俯き、口を噤んでしまう。
「嫌?」
「あ、いえ、嫌とかでは、ないんですけど。ただ……」
 顔を上げてとっさに言うけど、けっきょくは答えになっていなくて、また下を向いてしまう。
「何か、悩んでいることがあるんだね」
 そう微笑んで言う彼の目元は、少し寂しそうに垂れ下がっていて、私は「ごめんなさい」と頭を下げる。
「俺は、本気だから……いつでも返事は待ってる」
 東さんは嫌な顔一つせず、おまけに会計まで済ませてもらって、至れり尽くせりという感じだった。
 駅は反対方向なのに、電車に乗るまで送ってくれた。
 電車に揺られながら、ドアに寄りかかる。窓の外に浮かぶ、点々とした夜の明かりを眺めた。
 機械的なアナウンスと、席で笑って話しているスーツ姿の男たちがうるさくて、イヤフォンをして塞ぐ。アプリから最近人気のプレイリストを開き、適当に音を流した。
 どうして、答えられなかったのか。
 一つは、東さんからの告白が魅力的だから。
 それともう一つは、何故か答えようとするたびに、零の顔が私の頭の中で過ぎってしまったから。
 なんで、零なんだろう。
 零は大学生で、私とは一回りも年が離れているのに。
 彼を、そういう目で見たことはないはずなのに。
 今日は、金曜日。
 本来だったらあの神社に行く日。
 だけど、零に今日のことは言えなかった。東さんと会うのは、それなりに前から決まっていたことなのに。
 言わなきゃいけない訳ではないけど、東さんみたいなイケメンの人と食事に行くんだから、自慢しても良いくらいだった。
 それでもこの前会った時、どうしても言えなかった。
 何を、後ろめたく感じているんだろう。
 ……いくら考えても、分からない。
 だから私は知りもしない音楽に耳を澄ませ、来たことのない街の夜の景色をぼんやりと見る。
 私には、恋愛は向いてないんだ。
 そう、言い聞かせながら。


 囲むようにそびえ立つ山々と、視界を埋め尽くすほどの緑。といっても、それのどれもが田んぼや畑だけど。
 空気はとても澄んでいる。都内で感じる埃っぽさは微塵もなく、深呼吸をするとむしろおいしいなと感じくらい。
 私は今、父と母と車に乗っていた。運転は、父がしてくれている。私も免許は持っているけど、すっかりペーパードライバーになってしまった。仕事に追われていたこともあるけど、今どきネットショッピングがあるし、買い物はそれで十分だったから。
 向かっているのは、茨城に住んでいる父方のおばあちゃんの家。
 私もお父さんも年末年始休暇に入っていた。年越しを迎える前は、父母どちらかのおばあちゃんの家に帰ることが、毎年恒例になっていた。
 でも、私が名古屋にいた時は、たまに仕事が忙しくなって行けないこともあった。東京に戻ってからは会社が割とホワイトだから、そういうことはめっきり減って、そこは親孝行できて良いなって思っていた。
 車で約三時間。凸凹した細い道を抜け、おばあちゃん家の庭に着く。あらかじめ連絡しておいたからか、玄関のところで待っていたおばあちゃんに手を振られ、私は手を振り返し、お母さんは会釈をしていた。
「寒かったろう。早く家にお入り?」
 二重の玄関をくぐると、廊下はキンキンに冷えていた。手を洗うために使った水道水も痛くなるほど冷たい。でも居間の方に行くと暖房がついていて、中央にはこたつ。私は真っ先にそこに入り、ぬくぬくする。
 それからの数日間は、親戚の人たちと会ったり、おじいちゃんのお墓参りにいったり。それ以外の時間は、基本的にダラダラしていた。
 でもその数時間、私は厚着をして、鉛筆とスケッチブックを手に外へ出ていた。
 せっかくこんなにも喉かな場所に来ているのだから、東京では見られないものを描いておきたいと思った。あまりの寒さにずっと居続けることはできなかったけど、数日間に及んで描き続けたおかげで、どうにか完成することができた。
 稚拙だなって、感じてしまった。
 寒すぎて震えていたせいもあるけど、きれいな景色をそのまま描いている感じ。全然、学生のころの方がうまかった。
 でも、どうにか描き切ることができた。
 今はその事実の積み重ねが大事だと、心に言い聞かせる。下手なことに悲観して、後戻りしないように。
 今日は後ダラダラするだけかな。帰るの明日だし。
「晴ちゃん、ちょっといいかい?」
 何かなと着いていってみると、連れて来られたのは、何も植えられていない土だけの畑。まだ冬だし、ここで何をするのかと思えば、畑に残った茎や葉の野菜くずの掃除をするのだと言い、私にはその手伝いをしてほしいそう。
 することもないから良いか、と気軽に引き受けたものの、案外きつい作業だった。
 ただ野菜のくずを拾うだけ。でもずっと同じ体勢で、二人でやるにはかなりの広さだから、腰がめちゃくちゃ痛い。これを還暦越えのおばあちゃんが一人でやっているのだとすると、改めてすごいなと思わされた。
 拾った野菜くずは堆肥にするらしい。そこらへんはよく分からないから、あまり詳しく聞かないでおくことにした。
「晴ちゃん、居間で描いてた子、きれいな子やね」
「え、見たの?」
「彼氏かい?」
「違うよ、ただの友達、みたいな子」
 頬をかきながら答えると、おばあちゃんはニコニコしながら首を縦に振っていた。このままでは余計な詮索をされそうで、私は話題をそらす。
「すごいね、ずっと畑続けてて」
 手元を動かしながら言うと、「まあねぇ」と私より倍くらい早く拾い集めていく。どうにか同じ速度に近づこうとするけど、ちょっと無理そうだ。
「飽きたりしないの?」
 何気なく出た言葉だった。きっと何十年も同じことを繰り返しているのだから。実際、仕事ってそういうものなのではないかと、私は段々と感じ始めていた。
 でも、すごく失礼なことを言ってしまったことに気づく。
 人の仕事にケチをつけるのは、よくないことに決まっている。
 理由はどうあれ、頑張っているものを否定されることの辛さは、私は身に染みて知っているから。
「そんなこと、考えたこともなかったね」
 そんな心配とは裏腹に、おばあちゃんは一瞬黙ったかと思えば、カラカラと大きく笑った。
「そうなの?」
「愛情を注いで育てているからかねぇ」
 悩む素振りを見せず、すぐに帰ってきた言葉。それはたぶん、おばあちゃんにとって当たり前のようなことだからかもしれない。
 愛、かぁ。
 ふと考えてみると、愛ってなんだろうって思った。
 好きと似ていて、また遠いもの。
 それがどうしてなのかは、私には分からないけど、ただ違うものなんだということは、私も感じていた。
「おじいちゃんとの、唯一の繋がりだからねぇ」
 ぼんやりと空を見据え、零すように言葉にする。この空気のように澄んでいて、私の心にすんなり入り込んできた。
 私は、今でも忘れられない。
 おばあちゃんがあの時、涙を流していた姿を。
 いつもニコニコしているおばあちゃんの、初めて見た涙だった。
「大切な人が大事にしていたものだから、私にとっても大事になるのよ」
「何か、それは分かる気がする」
 気づけば出ていた言葉に、おばあちゃんはうんうんと頷いた。
 本格的に絵を描き始めたのは、初めて私の絵を好きだと言ってくれた人がいたから。今こうして絵を描き続けているのも、そのおかげ。
 だから、いつかまた好きだと言って欲しくて、絵を描き続けている、ということもあるのかもしれない。
「そうやって、伝っていくものなのかもねぇ」
 しゃがみ、おじいちゃんと育て上げてきた土に触れ、そっとすくう。素人目にも分かる年季の入った土には、二人の努力を感じる。
 伝っていく。
 あの人以外にも、私の絵を好きだと言ってくれた人。
 零は今、何をしているのだろうか。
「誰を思い浮かべているんだい?」
「え、どうして?」
「すごく、良い笑顔になってるからねぇ」
 私はえっと声を上げてしまい、顔が熱くなるのを感じる。寒いから余計に熱く、痒くて、それを見て「そっかそっか」と察したかのようにおばあちゃんは微笑んだ。
「魚心あれば水心」
 唐突に言われ首を傾げると、おばあちゃんは説明してくれた。
 魚が水に好意を持てば、水も魚に好意を示してくれる。このことから、人も好意を持って接すれば、相手も応じてくれる、という意味らしい。
 つまり、自分から心を開くことが大切だと言う。
「好きはね、とても移ろいやすいけど」
 おばあちゃんはよっこらしょっと立ち上がる。
「好意を伝え合って、いつか愛になった時、いつまでもずっと変わらないものになると、おばあちゃんは思う」
 拾い集めた物を持ち上げ、おばあちゃんは私の分まで受け取ろうとする。腰とか辛いはずなのに、そういうのを一切見せずに。
 また今年も、おじいちゃんとの畑を続けるために。
「だから、今の好きって気持ちを大切にしなさいね?」
 冬の太陽のように穏やかな笑顔に、私は目が離せなくて。ぼうっと突っ立っていると、行くよぉ、と声をかけられ、私はおばあちゃんの背中をついていく。
 昼下がりの太陽と、白む田んぼや畑。山々は朧げに映り、ああ、広いなって、今さらながら感じていた。
 彼女の背中は丸まっているけど、今の景色みたいに大きく見えて、私はおもわず両手でフレームを作り覗いていた。
 写真は撮らなかった。
 目に、焼きつけるように。
 土に汚れた手のひらを見つめ、ぎゅっと握る。
 もしかしたらおばあちゃんは、元々畑仕事が好きではなかったのかもしれない。昔はお見合いとかが主流だったから、本当に好きな人と結婚していない可能性もある。
 でも二人は歩み寄るように畑仕事をして、愛し合って、あの時のおばあちゃんは、涙を流さずにはいられなかったのかな。
 愛って、なんだろう。
 愛し合うって、どんな感じ何だろう。
 好きさえもよく知らない私には、果てしなく遠く感じてしまった。


 幸せで不幸なお知らせが、私のところに押し寄せてくる。
 年賀状の文化が少なくなりつつある今でも、LINEというもので新年の挨拶をする。二十代前半までは、特に気にしていなかった。
 でもこの年になって、久しぶりの知り合いから連絡が来ると、つい目に入ってはため息が出てしまうことがあった。
 それは、子どもが写ったアイコン。
 私の年になると子どもが一人どころか、複数生まれている女性もそこそこ出てくるようになる。
 その度に、私の時間だけが取り残されているように感じてしまう。結婚どころか、彼氏すら作ろうとしていない私は、何も進んでいないみたいで。
 写真だけで、幸せなんだろうなって思う。
 好きになった人と結婚し、その間に子どもが生まれて。
「好きって、なんだろう」
 冬の夜空を眺めながら、ホットココアをちびちび飲む。両手で握っているとじんわり温かくて、ほうっと息を吐くと、空気が白く曇る。
 今夜は金曜日。
 年明けに初めて来た恋岬神社は相変わらず廃れていて、日中さえ、誰か来ていた気配をまるで感じない。
 もしかしたらここを訪れるのは、私と零ぐらいなのかもしれない。
「どうしたんですか、いきなり」
「いや、最近そういうのに触れる機会が多くて、何となく」
 はは、とどこか自嘲的に笑ってしまうと、零は「分からなくもないかな」と同じように笑った。誰にでも好かれそうなこの子に言われるのは、何だか癪だけど、そういう人なりに感じることもあるのかもしれない。そう思えるくらいには、一周回って落ち着きつつあった。
「零は、正月は実家に帰ったの?」
 正月を過ぎたら、誰にでもするような質問。だから特に意味はなかったんだけど、零は肩を強張らせ、頬をかいてから口を切った。
「はい、まあ、少し」
 珍しく、ハッキリしない答えをする彼。私は「そっか」とだけ答えて、「さむー」と適当なことを言っておいた。
 何となく、察してしまった。
 もしかしたら零の中で、家族のことはグレーな話なのかもしれない。
「絵は、好きなことじゃないの?」
 唐突に言われてすぐに言葉が出なかったけど、少ししてさっき「好きって、なんだろう」と言ったことの返答なんだと気づく。
 私はすぐに首を振る。
「それはそうかもしれんないけど、私が思ったのは人間関係のことだから」
「同じですよ、たぶん」
 即答され、私は彼を見遣る。零は「その人にとってかけがえのない存在なら」と付け足すように言った。
 でも私はその言葉をうまく飲み込めなかった。
 趣味に対して好きという感情は一方通行で、人間相手だと、その人も関わってしまう。だから私には、別もののようにしか感じられなかった。
「まあ、もはや晴にとって絵は、愛に近いかもしれないですけどね」
「そうなのかな」
 眉を顰めてしまうと、零は「羨ましいよ」と消え入りそうな声。私の何を見て、羨ましいと思うのだろうか。
 ただの、絵を趣味にしている会社員なのに。
 私には自由な、大学生の男の子の方が羨ましく見えた。
「晴さんは、ちゃんと好きになれますよ」
 私に一つ微笑みかけてから、空を見上げる。木々のおかげで空気は澄み、夜空が映り込んだ瞳には星々が浮かぶ。キラキラしていて、きれいだなって変わらず思う。
 でも、なんだろう。
 今の彼の眼差しは、虚ろに見えた。
「零夜は、何か好きなことないの?」
 そういえば、私は零のことを何も知らない気がする。
 好きなものも、嫌いなものも、過去や将来についても。
 いつも、私の話を聞いてもらってばかりだから。
 零のことも知りたい。そう思ったのとは別に、彼に好きなものがあるか質問した理由はあった。
『晴さんは、ちゃんと好きになれますよ』
 そこには何だか、零夜は含まれていないような、そんな気がしたから。
「……なさそうですね」
 目を伏せ、顎に手を当てながら長考していたけど、けっきょくその答えが来た。「ほんとに?」と聞くと、「ほんとに」と苦笑いしながら返ってくる。
 でも、そのことを否定はできないなとも思った。
 今なら、もしかしたら言葉にできるかもしれないけど、少し前なら絶対に好きとは言えなかった。
 だからある意味、零は本当のことを言ってくれているように、私には感じられた。
「得意なことも?」
「強いていうなら、料理とか」
「あー、何か似合う」
 つい出た一言に、零はくすくすと笑う。「晴さんは、想像できないかも」と余計なことを言われ、私はむすっとして肩を小突く。いっそう彼は声を漏らして笑い、気づけば私も笑顔になっていた。
「食べてみたい、零夜の料理」
 そう言ってみると、零はぽかんとこっちに目を据える。私が眉を顰めてしまうと、「まあ、分かってないですよね」とため息交じりに言われる。
「どういうこと?」
 前のめりに聞き返してしまうと、また一つため息を吐く。すると彼は、今まで保たれていた距離を踏み越え、私の真横に座る。
 そして、私の手をそっと握った。
「誘ってる? ってことですよ」
 じっと、私のことを見つめてくる。視線が離せずに、何度か目を瞬かせてしまう。その瞳にはさっきまで星空がきらめいていたのに、今は、ぼんやりと私の姿が見える。
 どうして、私の手を握っていて、こんなにも近いんだろう。
 それに、誘ってる?
 いったい何のことを言っているのか……私はとっさに彼から距離を取り、彼の触れていた手を胸の辺りで握りしめた。
「え、いや、そんなつもりはなかったんだけど」
 私は今ごろ、すごく大胆な発言をしていたことに気づいた。零が困惑するのも納得で、穴があったら今すぐにでも入りたい。
 手料理を食べたいということは、彼の家に行くということになる。
 一人暮らしをする、大学生の青年の家に。
 そんなの客観的に考えてみれば、何も起こらないはずがなかった。
 顔が、馬鹿みたいに熱い。彼の目も、顔も見ることができない。そうやっていつまでも俯いていると、隣からくすりと小さく笑い声が聞えた。
「大丈夫、分かってますから」
 そう言いつつ未だに笑い声を漏らしていて、私は目を丸くしてしまう。やや経って冗談だったことに気づいた私は、唇を尖らせ彼の肩を押そうとした。
 だけど寸前で、彼に手を握られ止められてしまう。
 すぐ離してくれるかと思った。でも零は私の手を握ったまま、じっとそこに顔を向けていた。
 じわりと、そこだけが熱を持っているみたいだった。それが伝染するように、私の胸の辺りにも流れてきて、すぐに離そうとする。
 するとハッとしたように私を見て、手を離し、すぐに笑みが戻る。
「まあ、気が向いたらですかね」
 それだけを言って立ち上がり、そろそろ帰りますか、と言われる。時間も時間だから、私はとりあえず首を縦に振った。
 零は毎回、家の近くまで送ってくれる。
 夜道は危ないと、ほぼアラサーの私を女性扱いしてくれる。元々そういうことをされたことがなかったからこそ、当初は照れ臭かったのを覚えている。
 だから、あまり遅くならないようにしてくれるのは、とても自然な行動なのかもしれない。
 それでも、さっきの零がおかしく感じてしまうのは、私だけなんだろうか。
 そう思いつつ、どう聞けばいいのか分からなくて、けっきょく道を分かれるまで楽しく話して終わってしまった。
 ぴろん、とスマホが鳴る。
 東さんからメッセージで、最近見つけたというスイーツのURLを送ってくれていた。おいしそうだから私も買ってみようと思いながら、前に告げられた東さんの言葉を思い出す。
 いつでも待ってる。
 そう言ってはくれているけど、いつまでも待たせているわけにはいかない。
 そもそも、まだ告白されたわけではない。
 ただ、デートに誘われているだけ。
 趣味も合って、話も弾んで、社内で期待もされている。おまけにかっこよく優しい。こんな素敵な人、中々いないと思う。
 そんな男性に誘われているんだから、素直に会うべきなのかもしれない。
 なのにこうして返事をできずにいるのは、東さんとは真剣に向き合わなければいけないと思うから。
 ずっと、引っかかっていた。
 私にとって、今したいことはなんなのか。
 好きなことは、なんなのか。
 答えをもう、出さなければいけないのかもしれない。
 けど、もうとっくに私の中で出ている気がする。
 私の現状を考えると、浮かぶものはたった一つしかないから。
『今度、会いませんか?』
 私は、東さんにメッセージを送った。