家に着くと、さっきまで忘れていた疲れにどっと襲われる。色々脱ぎ捨てて、ソファーに倒れ込む。すると背中の方からため息が聞こえる。けど、私は振り向かずに目を閉じていた。パソコンの見過ぎと肩こりで頭が痛い。
「ごはんできてるけど、食べないの?」
「待って、少し休ませて」
「そういえば、今日は遅かったのね」
「あー、ちょっと化粧品買いに行ってたから」
 お母さんの質問に、だらだらとスマホをいじりながら答える。といっても、お腹は空いているから私は起き上がり、テーブルの方に向かおうとした。
「あんた、彼氏でもできたの?」
 けど、あまりにも唐突な言葉に、私はつんのめりそうになる。勢いよく振り返ると、お母さんはあっけらかんとした顔で言葉を続ける。
 そもそも金曜日だけ帰りが遅いのもそうだけど、金曜日だけやたら鏡でチェックしていたり、いつもより少しだけ元気だったりと、粗探しをすれば幾らでもあるのだという。
 私は、深くため息を吐いてしまう。
 こういうことは、よくある。
 見ていないようでよく私のことを見ていて、それを指摘される。気づかなかったことにしてくれれば良いものを、良い話題を見つけたとでもいうように。
 別にわざわざ隠していたわけではないけど、一々言われるのは恥ずかしいもの。そのことにお母さんは、たぶんだけど気づいている。
 だから、実家暮らしは嫌なんだ。
 まあ、どうせ電話してくるから大して変わらないんだけどね。
 それよりも、と私はお母さんをじっと見る。
「私、そんなに顔に出てる?」
「出てるわよ」
 だいぶ分かりにくいけどね、と付け加えられるけど、私はさっきよりも大きくため息を零してしまう。
 気をつけないと。
 会社で感づかれて、同世代の格好の餌食されないように。
 それと、零にもバレないように。
 私だけが楽しみにしているのなんて、あまりにも恥ずかしすぎるから。
「明日は帰り遅くなるの?」
「うん、たぶん」
「デートかしら?」
「違うよ。そもそも歳離れてるし」
 そこで私は、余計なことまで言ってしまったことに気づく。お母さんの方を見ると、うざったらしくニヤニヤしていて、私はムッと睨みつける。
「デート?」
 食い気味にこっちへ来たお父さんの顔は、眉間に皺を寄せつつ、口はぽかんと丸い。何とも言えない表情で、私の方こそ驚いてしまった。
「だから、違うよ」
「そっか……まあ、焦らなくていいからな?」
 そうあからさまに安心したように笑みを浮かべ、私は二つ返事だけをした。余計なお世話だと思うけど、そのことを言うと面倒臭そうだから何も言わない。
 お母さんが結婚しろとうるさいのに対し、お父さんは結婚はまだ早いんじゃないかとごねる。
 何故か、お父さんは私に甘い。
 私立美大に行く時も、お母さんは膨大な学費に悩んでいたけど、お父さんだけは快く許してくれた。奨学金も、こつこつ貯めていたお金で最低限にしてくれて、本当に感謝している。
 とにかく、優しい人。それは周りからの印章も変わらない。
 でも、恋愛のことになるとすごく厄介になる。
 学生時代は、男子と会う際だけ何故か門限を早くしてくる。泊まりなんて以ての外で、あの頃は色々と誤魔化して大変だったなと思う。今では良い思い出ではあるけど。それに最近は、男性との関りはめっきりなくなってしまったし。
 それもあってお父さんは安心していたからか、さっきは過剰反応してきたのかもしれない。
 きっと、青年と夜な夜な神社で会っていると言ったら、大慌てするんだろうなぁ。
 こんなかわいげのない娘、何がそんなにかわいいのか。私には、さっぱり分からないけど。
 そういえば、恋岬神社って私が学生の頃から寂れているけど、元々は何の神社だったんだろう。
 学業とか恋愛成就とか、そう言った感じかな。
 そのことを考えていたのは数分で、バラエティ番組を見て笑っていたら、頭からすっぽり抜けてしまった。
 夕食と色々な身支度を済ませて、私は帰りに買ったものを開けていく。
 ファンデーションとリップ。あまり量を使わないせいか古くなっていたから、化粧のりが悪く買い替えた。
 でも、同価格帯のものではなくて、ドラックストアでは、ほんの少し良い値段がするやつ。それは大人として、もう少しちゃんとしたほうが良いかなと思ったから。
 決して、意識してこれを選んだわけじゃない。
 リップをほんの少し出してみる。今気づいたけど、選んだのは前のやつよりも少し色が濃く明るいかもしれない。
 うっかりしていた。けど買ったのは、これをつけたいと思ったからだった。
 両手で掴んで、胸の前で包む。
 変に、思われないかな。
 そんな不安が頭を過ぎり、私はハッとして横に首を振る。これはただ人として、変だと笑われたくないだけ。そう、頭で何回も思う。
 明日は金曜日。
 やっと、今週の仕事が終わる日。
 だけどそれとは別の意味で。
 心が浮き立っていることだけは、間違いなかった。
 そろそろ寝ようかなと、時計を見遣る。二十二時前後。この時間なら、少しのんびりして寝ている。
 でも、私は疲労の溜まった重い腰を上げ、ベッドから椅子に移動し、机にスケッチブックを広げる。
 そして、机に飾られたひび割れた砂時計に触れる。一つ深呼吸をし、昨夜に研いでおいた鉛筆を握る。
「よし、やりますか」
 静かな夜に、不規則に線を引く音が鳴るのは、気づけば習慣になっていた。
 零と約束したあの日から、本当に少しずつ描けるようになっていた。全然、満足する出来にはならないけど。
 でも、完全に忘れていなかった。
 あの時の感覚は、まだ私の体に刻まれていた。
 苦しかったデザイナーの時代とは違って、今はあの頃みたいに楽しくて、私は前に進めているように思えて。
 次の日も頑張れるような、そんな気がしていた。
 けれど、この時の私はまだ知らない。
 零が私の絵を見たいと言ったのは、純粋な気持ちだけではなかったことを。