窓から差す秋の日差しのように、陽気な音色が巡る。
 果たして何の音楽なのか、あまり音楽に興味がない私には分からないけど、聞いているとすごく落ち着く。リズミカルなのに柔らかくて、優しい音だった。
 ブラウンとベージュに統一された内装は、クラシカルな雰囲気を感じるけど、不思議と眺めていると落ち着く。年季か、はたまた店員さんの物腰の柔らかさのおかげか。
 何だか、見ているだけで目が潤う気さえしてくる。私の職場は白黒で目がチカチカして、バタバタと忙しないからなおさらだ。
 お待たせいたしました、とテーブルにティーカップが乗る。コーヒーのほろ苦さが湯気を辿るように香り、ついつい顔を寄せては目を瞑ってしまう。
 ごゆっくり、と微笑みを浮かべる初老の男性は、この喫茶店の店長。
 灰色の髪はオールバックで固められ、首元は黒の蝶ネクタイ。目元は細く山なりで、彼の穏やかな人柄が滲み出ていた。
『喫茶店elena』
 私が十六歳の時から通っている、わりと近所にある喫茶店。
 店を訪れたきっかけは、何故か店先にいた店長に話しかけられたことだったと思う。どうしてかは、もう覚えていないけど。
 まだ高校生だった頃、お店がたまたま空いていてお喋りした時、創業二十年を迎えていたことを知った。だから、今はもう三十年くらいになるのかな。私が生まれるよりも前からこの店はあって、少し先輩だけど、何だか親近感のようなものが湧いたのも、常連になったきっかけなのかもしれない。
 辺りを見渡せば、年配のご夫婦や、本を読んでいる学生。中には子連れの男性もいて、本当に色々なお客さんがいる。
 店内の壁は濃い木の色で落ち着きがありつつ、喫茶店にしては、視界が明るいようにも感じる。照明というよりは、自然の光。窓がたくさんあって、四方八方から日が差し込んでいるから。
 私は地元に帰ってから、またここの常連に戻り、休日はじゃっかん入り浸り気味な時もあるくらい。実際、混んでさえいなければ自分の部屋よりも落ち着く。
 まあ、それ以外にも理由はあるけど。
 コーヒーを一口飲み、さっき届いたカルボナーラを頬張る。
「はぁ」
 ソースが濃厚で、ついため息が出てしまうほどおいしい。大人になってお金に余裕ができ始め、色々と食べてはみたけど、やっぱり私はここのが一番だ。イタリアは行ったことないけど、本場の味のようなものを感じる。
 でも対照的に、ナポリタンは昔ながらという感じ。すごいギャップだと当時は思ったけど、私的には美味しければどっちだってよかった。
 食べ終えてコーヒーのおかわりを注文した後、私はバックの中を漁る。取り出したのは、少し角が折れ、やや黄色みがあるスケッチブック。でも、鉛筆やペンは出さなかった。というより、持ってきてすらない。
 ページをめくる。
 さっきまで忘れていたはずなのに、不思議とその絵を見た途端、その記憶が断片的に浮かんでくる。
 絵を描いている時の感覚が、そよ風が吹くように胸を掠めていく。
 一つ確かなのは、楽しそうに描いているということ。
 それでも年月を重ねた、胸の中に残るモヤモヤが晴れることはなかった。
 私ってあの時、本当に楽しそうに描いていたんだろうかと。
 自分のことなのに、あの頃の自分を他人みたいに感じてしまう。
 それくらい、今の私にとっては遠い存在。
 こうして昔の私を覗いているのも、無理だと分かっていても、また凝りもせず絵を描きたいと望んでいるからなのかもしれない。
 まるで、蜘蛛の糸に手を伸ばすみたいに。
 ぼんやりと、一枚一枚見ていく。
 すると、ふわりとコーヒーが香る。おかわりしたコーヒーが来たのかなと、振り返ろうとするけど。
「絵、描くんですね」
 囁き声に、体が強張る。けどすぐさまスケッチブックを閉じ、慌てて両手で抱きかかえた。油断した。店員さんは気を利かしてくれるものだけど、中にはそうじゃない人もいる。
 昔の絵なんて、誰にも見られたくないのに。
 それと、気になったのは。
 今の明るい時間には、少しそぐわないような、低くも透き通る声。
 ここ最近よく聞いている声に、まさかと思い振り向くと、私はおもわず目を丸くしてしまった。
 前髪は分けられ、私の顔がしっかり見えるほど澄んだ、黒い瞳が露わになっている。それもあってか、心なしか出会った時より表情が明るく感じるけど。
 そこにいたのは、間違いなく零だった。
「どうして、ここに?」
「あれ? 喫茶店で働いてるの、言ってませんでしたっけ?」
「そうだけど、まさかここだとは思わないよ」
 少しブスっとした口調になってしまうけど、彼はニコニコしたまま「それもそうですね」と言う。
 常連なのに、零の姿を今まで見たことない。
 単に見落としていたか、たまたまシフトの日に私が来ていなかっただけか。
 そんなふうに最初は思ったけど、こんなにも目を引く見た目の青年がいれば、さすがに気づかないはずがない。
 そう思っていつから働いているのか聞いてみると、どうやら今年の春かららしい。それでも見かけなかったのは、基本的に零の休日は金、土曜日だから。今日はたまたま休みの人が出てシフトに入ったようだ。
「何なら土曜日も大学は午後空いてるので、本当は働きたいんですけどね」
 誰に向けてなのか分からない文句を彼は言うと、テーブルを拭き終えた店長が、にこやかにこっちへやって来た。
「そのことはこの前、しっかりと話したはずだよね?」
「わかってます、言ってみただけです」
 問いただすような言い方に、零はやや唇を尖らせながらふて腐れる。それを見て、店長の口角はもう一段階だけ上がった。
「何だか、親子みたい」
 つい言葉にしていた。目の前に広がる陽だまりのような暖かさが、世間でいう仲の良い親子にしか見えなかったから。
 でもきっと、店長は家族を幸せにしてくれそう。
 そう、勝手に思ってしまった。
「親子、ですか」
 店長は言葉を零すと、自分の手を見据える。すると、きらりと日差しに何かが光る。彼の薬指には、シルバーの指輪がはまっていた。でもそれは少し緩く、滑り落ちてしまいそうだけど、第二関節を曲げてどうにか留めている。
 もしかして、結婚指輪だろうか。
 今まで気づかなかったけど、どうやら店長はいつも指輪をつけていたのかもしれない。
 遠目からにも感じる年季と、そこへ向ける店長の穏やかな眼差し。連れ添って来た、彼の奥さんに対する愛を感じずにはいられなかった。
 いいな、何十年も愛し合える関係って。
 柄にもなく、素直に羨ましく思ってしまった。
「けどおそらく、私と零くんの年齢なら、どちらかというと孫になりそうだがね?」
 おどけるように小首を傾げる店長に、私は笑みで頷いていた。それもそうだ。零は未成年で、店長はもう還暦間際なのだから。
「でも、店長が親だったら、すごく優しくしてくれそうですね」
「そうかい? なら、あそこに食器を置き忘れているけれど、今はまだ見逃してあげるとしようか」
 ちらりと店長が視線をそこに向けると、零は目を見開き慌てて取りに行く。といっても喫茶店だから、早歩きにもみたないけど。その後姿がじゃっかん競歩みたいで私と店長は笑ってしまった。
「店長、零には厳しいんだね」
「まあね」
「ちょっとかわいそうだけど、しょうがないね」
 私が見てきた店長は、時がゆるやかに感じるくらい穏やかなおじさま。
 だけどさっきの彼は意地悪で、想像もしていなかった一面が何だか面白かった。
 だから、つい意地悪くなってしまったけど、店長は文句を言うでもなく「そうかい?」と首を傾げた。
「彼は見た目以上に、甘えん坊だからね」
 微かに見える彼の細まった瞳の先には、接客をする零の姿。丁寧かつスムーズで、学生にしては少しでき過ぎているくらい。
 それなのに、甘えん坊。
 店長はいつも通り笑顔。だけど、少しだけひんやりしている。秋に混じった、気まぐれに吹く風みたいに。
 その後、店長はお客さんに呼ばれて行ってしまった。そろそろお昼時ということもあってか、いつの間にか視界は賑やかになっていた。
 零も、少し忙しそうにしている。それでも顔に出ていないのは、すごいなって思った。私なら、絶対にきつい真顔になってしまいそうだし。
 あの柔らかな笑顔に当てられてなのか。心なしかお客さんの笑みが深く見えるのは、気のせいだろうか。
 零といると、空気が静かに和むのはたしか。
 あれから、毎週金曜日。
 それ以外の約束は決めず、気が向けば恋岬神社に集まっていた。
 それでもお互い、ほとんどの日を訪れていた。私が行かなかった日は、馬鹿みたいに残業が長引いてしまった時のもの。
 なんなら、そこに行って零と会わない日は一度もなかった。
 何をしているかと聞かれれば、特にこれといったものは何もしていないと思う。
 その日にあったどうでも良いことを話したり、それぞれ持ってきた食べものがあればシェアしたり。
 一言でいえば、ダラダラしていた。
 この前に話したのは、最近コンビニで新発売されたスイーツのこと。その前はたしか、おすすめの漫画や小説だったかな。その前は……もしかして、私ばかり喋っているような気がする。
 でも私は、あまり自分のことを話すタイプではないはず。
 それなのに、どうして零にはこんなにも饒舌になっているんだろう。
 聞き上手なのかな。
 たぶんそれもあるけど、それだけではない気もする。
 想い返してみると、どちらかというと、甘えているのは私のような。
 これじゃあ年上なのに、威厳の欠片もない。そもそも、私に年上ぶれるような何かがあるとも思えないけど。
 食後のコーヒーを飲みながら、ぼんやりと見つめていると、ふと零と目が合う。私は無意識に、そこから視線をそらしてしまう。すると横目に、彼が近づいてくるのが見えた。
「そういえば、言い忘れていたことがあります」
 カウンター側から口元を隠すように手を当て、こそこそと話す。私は眉を顰め、少し前のめりになって耳を傾ける。
 すると、零は私のトートバックから覗く、窓の日差しに照らされたスケッチブックを見る。微笑み、軌跡を辿るように私と視線が絡む。
「晴さんの絵、僕は好きです」
 人の往来で、彼の顔に影が被る。きらりと、彼の瞳が灯る。それが妙に眩しくて、目がくらんだ。でも口をいつまでも閉ざしたままなのは、彼の一言を反芻しては、何も言葉が出てくれないから。
 きっと本当の気持ちなんだと、緩やかに細められた目を見れば、鈍感な私にさえ何となくわかってくる。
 それでも。
「見えたの、一瞬でしょ?」
 さっきまで声にさえできなかったのに、するりと、営業スマイルをするように自然に出てきた。
 知り合いの絵だから、そんなふうに言ってくれるだけなのだと。
 でも確かめているのは、もしかしたら彼にではなく、私自身になのかもしれない。
 才能なんてない。
 有象無象にしかなれない。
 こんなことで自惚れるな、私。
 すっかり閉じ切っていた扉から少し覗いて見ただけで、見て見ぬふりをしていた黒い塊が一気になだれ込んでくる。
 また、胸の奥の方が黒く塗りつぶされていく。
 だけど、変に心は静か。
 もう、どうでも良いのかもしれない。
 描きたいのに描けない。
 そうやってかわいそうな自分に浸っているだけで、本当はもう描きたくないと思っているのかもしれない。
 だからもう、なかったことにして。
 私の絵を好きだなんて、なかったことにして。
「そうですね、一瞬でした」
 でも、その願いとは裏腹に。
 零は真っすぐ私を見て、「でも」とリズムを刻むように言葉を挟み、今日一番の優しい笑顔を浮かべた。
「そのせつなに好きだと思えたのなら、きっと僕は、晴さんの絵をとても好きになれそうです」
 にっとさらに口角を上げて、「そう思いませんか?」と付け加えるように聞いてくる。反射的に頷いてしまうと、彼はご機嫌にふふっと笑い声を漏らす。
 ああ、やばい。
 私はとっさに視線を落とすと、コーヒーにぼんやりと浮かぶ自分の顔に目がいく。ふわりと、波紋状に揺れる。
 目じりにはやや皺があって、くまがくっきりと浮かんで、水面越しにも肌に艶がないのが分かってしまう。
 ひどい顔。
 よく、こんなで外を出歩けたものだ。まあ、といっても会社に出社する時でさえ、最低限(私の中での)しかしないけど。
 ちゃんとメイクすれば、少しはマシになるだろうか。
 いつからだったかな、メイクをほとんどしなくなったのは。
 元カレと別れてからだっけ。
 いや、たぶんもっと前。
 元カレに、慣れ始めてから。
 何か、女として終わっているなって、改めて思わされた。
 横目にトートバックからはみ出たスケッチブックが見えて、私はそれを手に取る。でも、中は見ない。目の前にいる彼には、絶対に見せたくない。
 じっと、スケッチブックの表紙を見据える。
 今ではもう書けない、丸っこい字で私の名前が斜めに書かれている。色あせていて、よく見れば『sketchBOOK』のOが一つ消えかかっている。
 ここには、私の青春がつぎ込まれている。
 絵を描くことが楽しくて、辛くても乗り越えられたあの頃。
 ここに持ってきたのは偶然だった。部屋の片づけをしていたら出てきて、何となくトートバックの中へとしまっていた。
 でも、本当にそうだったのだろうか。
 私はただ、夢中になれたあの時の思い出に、浸りたいだけなのかもしれない。
 そうすれば描いてもいないのに、描いている気でいられるから。
 私はスケッチブックをトートバックの奥へと押し込み、一つ息を吐き出し、零の顔を見つめる。
「私の絵、見たい?」
 突然のことにか、零はこっちを見ながら何度か瞬きを繰り返す。でもすぐ、首を縦に振ってくれた。
「もう少しだけ待ってて欲しいんだけど、いい?」
「はい、楽しみにしてます」
 それから店長に呼ばれ、零はまた仕事に戻る。その足取りはどこか軽やかに見えて、ついくすっと笑ってしまう。
 けど、これで良かったのだろうかと思ってしまう。
 本来なら、私自身で解決しなければいけない問題なのに。
 けっきょく、利用するように、絵を描く口実を作ってしまった。
 深く、ため息が零れる。ゆるりと、波打つようにカップの水面が震える。眉間に皺の寄った、情けない顔。私はじっと眺め、左右に首を振って天井を見上げた。
 絵を描きたいと思えた、せっかくのチャンスを逃したくない。
 今は、こうするしかない。
 それに本心でもあった。
 一番に描き切った絵は、まず零に見せたかった。
 こうしてまた絵を考える、きっかけをくれた男の子で。
 素直に、私の絵で喜んでいる顔を見たいから。
 そういえば、絵を描き始めたきっかけも、私の絵を好きだと言ってくれた人がいたから。
 絵の知識はないけど、とにかく好きだと、何の根拠もなく自信満々に。
 それから、本当に馬鹿にみたいに絵を描いては、あの人に見せていた。
 とても、嬉しそうに目を細めて見てくれた。
 思えば、零とあの人はどこか似ているような、そんな気がした。
 どこかと言われれば困るけど……雰囲気とかかな。
 カランコロン。
 やや乾いた風が舞い込むのといっしょに、ドアベルが柔らかく響く。振り返ると、私は「おーい」と手を振った。
 ストレートシルエットの濃いデニムに、踏まれたら痛そうな細長いヒールのブーツ。トップスはドカッとマスタード色のニット。背にあるブラウンの長髪は毛先の方だけカールがかかっていて、ふわふわしている。もちろんメイクもばっちり。季節を意識してか、秋っぽいやつ。
 こんな私とは正反対に、いいお姉さん、の彼女は私の小学校以来の友だちで、名前は京花(きょうか)。私は京ちゃんって呼んでいる。
「ねえ晴、これから散歩いかない?」
 店に入ったばかりなのに、あまりにも唐突な提案に「え、あ、うん」と言葉を詰まらせてしまう。
 といっても、さすがに何も買わないのは申し訳なく思ったのか。彼女はアイスコーヒーを注文し、グイっといっぱい飲んで「おいしかったです」と一言添えて店を後にした。


「あたし、結婚することになった」
 桜並木通り。
 私たちが小学生のころ、登下校でいつも通っていた道。
 特に目的地を決めずに散歩していると、ぶらぶらとここへたどり着いていた。
 たしかあの時は、石を交互に蹴り合いながら、永遠とおしゃべりしていた気がする。漫画とか学校のこととか、本当にたわいもないことだった。
 もう何度したか覚えてすらいないけど、その思い出を語り合い、桜並木が途切れそうになった頃。
 京ちゃんに、あまりにも唐突すぎる告白をされてしまった。
「えっと、結婚って言った?」
「うん、結婚」
 驚きを隠せず、つい疑うように聞いてしまった。けど彼女はあっけらかんとして頷き、黄色づいてきた桜の木をぼんやりと眺めていた。どうして急に、とつい問い詰めたくなってしまうけど、どうにか押し込める。
 もう、そういう年齢なんだ。
 そのくらいなら、私にも分かった。
「どんな人なの?」
「なんだろう、たんぽぽの綿毛みたいな人かな」
「ふわふわしてるってこと?」
 眉をひそめて聞くと、「そうそう」と二回首を縦に振る。ふーん、と返しつつ、つまりそれってどんな人なんだろう? と胸の内で小首を傾げてしまう。するとそれを察したかのように、彼女は言葉を続けた。
「私さ、死ぬほど腐ってるじゃん?」
 私はそれに深く頷いた。
 腐ってるとは、腐女子のことを表している。腐女子とは、男同士の関係や恋愛が好きな女子の総称だった。
 こんな六本木とか銀座にいそうなイケてる女性の見た目をしているけど、中身は私なんかじゃ足元にも及ばないほど、重度のズブズブなオタクだった。
 証拠にコミケには毎回参加し、聞きたくないほどの散財。ゲーム会社のエンジニアとしてガツガツ稼いで、生活費を除き、ほとんどを趣味に費やしているらしい。最近の悩みは中々貯金ができないことだと嘆いていた。
「でも負けず嫌いだから、身だしなみもちゃんとしていたかったし、彼氏も何だかんだスペック重視で見てたところがあると思う」
「え、そうなの?」
 彼女の方を振り向き、つい聞き返してしまう。私にとって、あまりにも彼女には似合わない言葉だったから。
 サバサバしていて、周りの目を気にしないかっこいい親友。
 私の中の京ちゃんのイメージは、そうだったから。
「だって、オタクってだけで下に見られたくないから」
 ははっと笑っているけど、細められた目元には弱々しさを感じる。
「だからってそれを他の人にも押し付けるつもりはないからね、あくまでも自己満だから」
 早口で言葉を足され、私は「わかってる」と返す。
 京ちゃんは自分の身だしなみには厳しいけど、私みたいな友達には何も言わない。さすがに繁華街にぼっさぼさの髪で行った日には怒られたけど、それもある意味で彼女の気遣いだと思っている。こういう地元では、ジャージ姿で会っても何も言われないし。
 京ちゃんは、昔からオタク全開だった。
 アニメのコラボカフェに行くときも、推しの缶バッチだらけのトートバック。でも彼女自身に雰囲気があるから、なぜかそれも一種のオシャレみたいになっていた。
 思えば、学生の時に京ちゃんがオタクで馬鹿にされているところを見たことがないかもしれない。
 それも、彼女の努力の賜物なのかもしれない。
「なんか、かっこいいなって思った」
 純粋にそう思った。私にはたぶん、戦うことはできないだろうから。
「かっこよくはないよ」
 けど京ちゃんは、左右に首を振る。
「結局のところ、周りの目ばかり気にしてるだけなんだからさ」
 半笑いで、私の方を見る。だけど目は合わなくて、虚ろな瞳。見えない何かを見ているようで、少しだけゾッとしてしまう。
 私は、好きでおしゃれをしているのだと思っていた。いや、それもたしかにあるのかもしれない。
 けどそれは、自分の身を守るためでもあったんだと、私は今日初めて知った。
 でも、なにより。
 京ちゃんには昔から、色々と助けてもらっているのに。
 十数年も友達をやっているのに、それに気づけなかった自分自身が情けなかった。
 だから私は何て声をかけていいのか分からなくて黙ってしまうと、京ちゃんのスマホから電話の通知音が鳴る。
 一言謝って彼女は電話に出ると、さっきまでより声がワントーン高く、明るくなるのを感じる。
 そんな声が出るんだと驚きつつ、通話相手が誰なのか察して聞かないようにした。
「彼氏?」
 少しにやけつつ聞いてしまうと、彼女は頬を赤らめて「どうしてわかったの?」と声をやや荒らげる。どうやら、全く自覚はないらしい。
 でも、少しほっとしていた。
 本当にその人のことが好きなんだと、知ることができたから。
「初めて、本当の私を受け入れてくれた人だった」
 そう、顔を綻ばせる。目元はやまなりで、和やかな空気が伝ってきて、私までほんわかしてきた。
「今まで受け入れるような言葉をくれる人はいたけど、やっぱり駄目だった。言葉にされなくても、表情や反応で、そういうのって分かっちゃうものだから。
 だけど、彼は違った。
 私の趣味全開の話も楽しそうに聞いてくる。あたしの楽しそうにしているのが嬉しくて、話しも新鮮で面白いんだって。
 本当に、あたしには勿体ないくらい素敵な人なんだよ」
 惚気ている間はいつまでも笑顔でいて、胃もたれしてしまいそうなくらい。
 思えば愚痴じゃなくて、彼氏の自慢をされるの自体、初めてのことかもしれない。
「身内ってなると、偽るのもきついものがあるんだよ」
 だから今すごく幸せ、とまた歯が浮くような言葉が京ちゃんの口から発せられる。違和感なのも確かだけど、ちょっと羨ましい気もする。
 だけどまず何よりも、京ちゃんの幸せが嬉しかった。
 それから、色々と彼氏とのことを質問攻めした。彼女に対して、こういうことができるのは初めてだったから、ついつい。
 五つ年上で、某文具メーカーの主任的な立ち位置らしい。
 穏やかな人柄や仕事の速さから人望も厚く、社の主戦力として活躍しているらしい。
 そのためお互い忙しく、経済面を加味してもどちらかが退職するべきなのかもしれない。実際、親からそういう相談はあったよう。
 でも趣味にもお金を使いたくて、加えて自分のお金じゃなきゃ意味がないと思っている京ちゃんが反対したところ、彼氏さんのほうがちゃんと納得のいく説得をしてくれたらしい。
 完璧な人だなって思ったけど、どうやら抜けているところもあるようで、手先が不器用で、料理も壊滅的に下手なのだとか。
「それさえも、愛おしく感じるから不思議」
 愛おしい、かぁ。
 押しのキャラにも同じことを言っているけど、何だかそれとは違って見える。
 一方通行といよりは、通じ合っているみたいな、そんな感じ。
 彼との話を聞いていると、こっちまでニヤニヤしてしまって、それを珍しく京ちゃんは恥ずかしそうにしていた。
「じゃあ、出会いってどんな感じだったの?」
「マッチングアプリ」
 何気なく言う京ちゃん。だけど私は口を丸くしたまま、彼女の方に目を凝らしてしまう。
「え……マッチングアプリ?」
「うん、今どき普通でしょ?」
「そ、そうだね」
「条件見ながら相手を選べて便利だから、晴にもおすすめ」
 淡々と言ってくる京ちゃんだけど、私は、言葉を詰まらせてしまう。
 今どき普通だと言ったけど、私もその通りだと思う。出会いがないとか草食化とか、ネットやニュースで取り上げられる現代で、必要なことなんだと思う。効率的だってこともわかる。
 それでも、何だか受け入れ切ることができなかった。
 スマホ上で選んで、会って、付き合ったり結婚したりするのが。
 私には、機械的に感じてしまって。
 母親にだって、進められていた。婚活とか、相談所とか。
 広告だって、そういうのばっかり。
 友達だってそうだ。そういう話ばかりで、たまにうんざりする。
 取り囲むように、追い込むように、じりじりと窮屈になっていく。この世の中は、そういう風になっている気がする。
 早く相手を見つけたほうが良いことなんて、嫌ってほど分かっている。私だってもう若くないんだから。
 けれど、私にはやっぱり無理。
 正直、結婚なんて考えられない。
 他の人のは素直にお祝いできるけど、いざ自分のこととなると、考えるとぐちゃぐちゃになっていく。
 それなのに、親は私の気持ちも考えずに結婚のことばかり話しかけてくる。彼氏はできないのか、良い人はいないのか、ぐちぐち言われて鬱陶しい。
 日曜日と月曜日が、父の休日。
 そのせいで話し相手を求めて私のほうへやってくる。共通の話題なんて、ほとんどないのに。
 だから逃げるように、休日にするために、土曜日は喫茶店に行く。
 素直に『喫茶店elena』のコーヒーやパスタがおいしいから、ということもあるけど、これが一番の理由だった。
 このまま、逃げ続けて良いのだろうか。
 ……分かってる。
 でも、今の私にはこうするしかなかった。
 恋愛をするにはまだ、私の心にすき間は空いていない。
 ぎゅっと、トートバックの中のスケッチブックにそっと手を添える。あの頃は鉛筆といっしょに手に馴染んでいたけど、今は他人のように感じる。それくらい、数年のブランクは大きいということ。
 今は、絵を描きたい。
 もう一度、絵を描きたい。
 それだけを、私は考えなければいけないのだから。


 タイピング音と会話が、あちこちから聞こえてくる。
 私もその中の一人で、パソコンに向かって黙々と資料を打ち込んでいく。でもその視界では、右下に映る11:59という数字がちらちらと映っていた。
 そして正午になると、私は切りのいいところで手を止め、パソコンをスリープさせた。辺りを見渡してもそんな感じで、手を動かしている人もいればお昼を食べている人もいる。
 うちの会社では、あまりきっちり昼休みは決まっていない。それは仕事の状況によっては、休憩に入れる人とそうではない人が出てくるから。
 私のいる事務は比較的そういうことが少ないけど、たとえば営業だったら、出先の状況によっては休憩のタイミングなんてまちまちだった。全員必ず休憩を取らなければいけないから実質変わらないけど、遅くに休憩を取っている人を見ると少し不憫にもなる。
 今日のお昼は、自宅から持ってきた弁当。一応、自分で手作りしたものだけど、クオリティは完全に自分用といった感じ。見た目や色どりが良いとはとても言えない。
 食べる前に、飲み物を買いに行かなければ。今日は時間がなくて、水筒は持ってこられなかった。
 今日は紅茶(無糖)と緑茶どっちにしようかな、とぼんやり悩みながら歩いていると、自動販売機の前に見覚えの背中があった。
 同じ部署の人かなとそっと横顔を見ると、全然違うことに気づく。
 後ろ姿に覚えがあったのは知り合いだからではなく、この前、同い年で社内では先輩のスズが遠目に騒いでいたから。
 この人は、女性に人気のある営業の東さんだった。
 まあ、だからといって何かあるわけではないけど。友達がファンなだけで、そもそも実際の関りはないわけだし。
 私はまた何を買おうかぼんやり悩んでいると、東さんの様子が少し変なことに気づく。私は首を傾げながらも、ちょんちょんっと肩を叩いた。
「あの、どうかしましたか?」
「あ、いえ。すみません、お先にどうぞ」
 お言葉に甘えて、私は先に買わせてもらう。ちなみに、けっきょく選んだのは紅茶だった。
 休憩時間も勿体ないし、私はその場を足早に去ろうと思った。けど、ちらちら振り返ってしまう。
 東さんは後頭部をかき、やや俯いている。どう見ても私には困っているようにしか思えなくて、私は彼の下まで早歩きした。
「どうかしましたか?」
「なぜか電子マネーが使えなくて。加えて財布も忘れて、どうしようかと」
「そういうことなら貸しましょうか?」
「いいんですか?」
「はい、どれですか?」
「あ、じゃあそこのカロリーメイトを一つお願いします」
 そのままの流れで、私は財布から小銭を取り出して買いそうになる。けど、ふと手を止めて東さんの方を向いた。
「すみません。これがお昼なんですか?」
「そうですね」
「さすがに、足りないんじゃないですか?」
 苦笑いしながら、つい口出ししてしまう。でも後々になって余計なお世話だということに気づき、私は彼の顔をじっと見てしまう。うざがられていないか、心配になってしまった。
「あー、そうなんですけど……最近、忙しくて食欲なくて、これを水で流し込もうかと」
 彼はまた後頭部をかきながら、恥ずかしそうに少し笑う。その様子を見て、イライラされていないことに少しほっとした。
 どうやらスズの言った通り、東さんは穏やかな人のよう。ついでに、はにかむ姿さえ様になるくらい、顔が整っているのも噂通りだった。
「あの、もし良かったらスープ系を買うのはどうですか? たしか、そこを真っ直ぐ行って右の自動販売機に売ってると思うので」
「へえ、初めて知りました。そうですね、スープなら食べれそうなので買ってみます……すみません、ついてきてもらってもいいですか?」
「はい、行きましょう」
 またお節介なことを言ってしまったけど、彼は感心するようにうんうんと唸っていた。何だか素直な人だなと、つい口角が上がってしまった。
 自動販売機に着くと、そこにはスープの他にもおにぎりや菓子パンなども売られている。今更だけど、スープといってもインスタントで、これならカロリーメイトと変わらないように思えた。
 いや、これは気持ちの問題だ。
 あのぽそぽそしたものを食べるより、スープの方が温かくて元気になれるはず。
 東さんは悩んだ末、パスタの入ったトマトスープのボタンを押す。ガコンと落ちたそれを拾い、私に向けて頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
 それでは失礼します、と私は自分の席に戻ろうとする。けど、彼に腕を掴まれ、阻まれてしまう。
「あの、もしよかったら、このままいっしょに食べませんか?」
「え、でも……」
 俯き、私は言葉を濁してしまう。
 こう言う時、どうやって断ったらいいんだろう。
 別に、東さん自身が嫌なわけじゃない。悪い人じゃないんだろうなって思う。
 でもスズや他の人に見られたら、面倒なことになりそうで、それがすごく嫌だった。憶測で、色々なことを言われそう。
 今回は困っていたから声をかけたけど、今後はいっそのこと関りを断ってしまった方がいい。そう思って彼の方を向くけど。
「だめ、かな?」
 年上なのに、どこかあどけない瞳で見つめられる。純粋に誘われていることがひしひしと伝わってきて、私は息を一つ吐きながらも「わかりました」と頷いた。
 それから私たちはカフェスペースでお昼を食べながら、普通の会社員としての会話をしていたと思う。
 一通り自己紹介をして、普段どんな仕事をしているのか、先輩や同僚のこと、近くにあるおいしいランチなど。
 一番盛り上がったのは、たぶんランチのこと。
 営業だからか、東さんが外のお店にとても詳しくて、特にスイーツ系のことになると、ついつい私の方から食いついてしまった。
 すると、東はクスクスと笑み零した後、ほっとしたように一息ついた。
「よかった、楽しそうにしてくれて」
「それは、その、スイーツの話をするからですよ」
「はは。まあ、それもそうだけど、最初は全く乗り気じゃなかったからさ」
 私は「すみませんでした」と深く頭を下げる。案の定、気づかれていた。でも、よくよく考えれば、そんなの当たり前。東さんは社内でも営業成績は常にトップなのだから。些細な変化に気づかないはずがない。
「本当は、嫌だった?」
「いや、そうじゃないんです。ただ、東さんのように目立つ方といると、他の女性社員さんに変な目で見られそうで、面倒だなと」
 俯き、言い訳をするようについ饒舌になる。いや、もはや言い訳か。理由はどうあれ、東さんの下から早く離れたいと思っていたのだから。
 ゆっくりと、顔色を窺うように顔を上げる。
 怒って、ないかな。
 そんな心配で心臓がバクバクするけど、東さんは目をまん丸くしてこっちを見ていて、ふっと失笑した。
「なるほど、そういうこと。大丈夫なのに。実際、俺ってそんなに目立たないし」
「そんなことないですよ。周りでは、何かとかっこいいとか仕事ができるとかで噂になっているので」
「え、そうなん? それは知らなかった」
 困ったように、眉をひそめる東さん。そこで、私はまた口が達者になっていたことに気づき、ばっと口を覆う。そして、徐々に頬が痒くなる。
 はずかしい。
 でも、それは彼も同じなのか。
「なんか、はずいな」
 と後頭部をかきながら言う。私はその姿を見て、ついクスクスと笑ってしまう。想像していたよりピュアな人なのが、つぼに入ってしまった。
「でも、実際大丈夫だっただろ?」
 頬に杖をついていう彼に、きょろきょろ辺りを見渡してみる。けど、こっちへの鋭い眼差しは今のところなさそうで、「そうですね」とほっとしたように言う。すると、彼はにぃっとめいっぱい口角を上げる。
 お手本のような、お日様みたいな笑顔。
 最初は何を言っているんだろうと呆れていたけど、こうして目の前にすると、スズたちが騒ぐのも無理ないなと思わされた。
 ちらりと、腕時計を見遣る。そろそろ時計の針が休憩の時間を越えそう。私は広げていた弁当を片付けていくと、「あのさ」と東さんに声をかけられる。
「今度もお昼いっしょに食べない?」
 今日の分、何かお礼したいんで。
 そう付け加えられ、食事に誘われたことによって固まっていた思考が一気に動き出し、すぐさま左右に首を振った。
「いえ、お礼は大丈夫ですよ」
「なら、終業後に食べに行かないか?」
「あの、本当にお礼はいらないです。お金返してくれれば大丈夫なので」
 早口で断り続けると、東さんは一つため息を吐き、頬杖を付いたまま斜め下を向く。さすがに失礼な断りかたかな、と思いすぐに謝ろうとするけど。
「お礼じゃなくて、ただ俺が山下さんと一緒にいたいんだけどなぁ」
 東さんの言葉に、私は固まってしまう。その顔が間抜けだったのか、こっちを見て噴き出し「そんな驚くことかな」とすらりと長い足を組む。
「山下さんとご飯食べるの、けっこう楽しいなって思ったからさ」
 真っ直ぐ、こげ茶色の瞳が私を見つめる。優しくて、温かそうな色。まるで、東さんそのものを表しているみたいに。
 私はさっきまで、絶対に断ろうと心に誓っていた。
 その、はずなのになぁ。
 私はふと目をそらし、俯きがちにこくりと頷いた。
「……わかりました」
「やった。すげー楽しみ」
 にかっとした満面の笑みで、無邪気に喜ぶ彼。
 それから東さんから、また連絡することと、今日のことのお礼をもう一度され、私たちはそれぞれの仕事場に戻った。
 何だか、話しに聞いていた人と違うなって感じた。
 どちらかというと、生で見た彼はかっこいいではなく、かわいらしい人だった。
 たしかなのは、想像していたイメージよりも、さっき話していて感じた東さんのほうが、断然好感を持てるということ。
 そしてこのことは、絶対にスズたちにバレないようにしなければいけない、ということだった。