春のそよ風と小鳥のさえずりに、ワタシの意識は緩やかに微睡む。
 日は傾きかけ、景色は蜜柑色で染め上がっていた。やや肌寒くなる時間帯で、吹く風は灰色がかって見える。
 暦は、たしか春。
 四月の終わりだっただろうか。
 こんな時間から、ワタシはぼけっと空を眺めながらウトウトと船を漕いでいる。休みだからではなく、ずっとこんなだ。
 普通なら、よくないことなのかもしれないが。
 ワタシにはもう、関係のないこと。
 いつまでも眠っていようが、ぼんやりしていようが、誰も困る人などいないのだから。
 それでもワタシは、ここ数日、この時間帯は目を覚ましていた。
 それは珍しくも、夕暮れ時に客が訪れるから。
 制服を着た少女はいつも石の段差に腰掛けていて、もくもくと前かがみになっている。手元以外、ピクリとも動かない。
 後姿では、何をしているのか分からなかった。
 たまにこういう人はいて、最初は気にはしていなかったが、彼女は数日置きに現れ、何かをひたすら行っていた。
 そのせいで、とうとうこの前、声をかけてしまったのだ。
 それからワタシたちは、ここで少し話すくらいの関係になっていた。
「今日も絵を描いているのかい?」
「そうだけど、見ないで」
 彼女は手元にある物を抱いて隠す。隙間から覗いているスケッチブックは、まだ真新しい。買い直したのか、はたまた書き始めたばかりなのか。この反応を見た限り、後者の可能性が高そうだが。
「前から思っていたが、なぜ見られたくない?」
「なぜって……そんなの、うまくないからだよ」
「最初は皆、そうではないのか?」
「そうだけど」
 伏し目でごにょごにょ言う。ワタシがそれに軽くため息を吐くと、彼女はキッとこちらを見上げ、唇を尖らせる。
「ならどうして、そんなに見ようとしてくるの?」
 うまくないって言ってるのに。
 どこか投げやりに放った言葉に、ワタシは首を傾げてしまう。
 たしかに、なぜだろう。
 なぜワタシは、彼女の絵を見たいと思うのだろう。
 これまで何を見ても、聞いても、触れても、興味なんて微塵も持てなかったのに。
 だから、いつまでも寝たりぼうっとしていたり、していたはずなのに。
 ……ああ、だからかもしれない。
「どうしてそんなに熱心になっているのか、気になってな」
「そんなの、楽しいからじゃない?」
 当たり前とでも言うように肩をすくめる彼女に、ワタシは一つ頷く。
「まあ、それも一つの選択肢だろうな」
「どういうこと?」
「まあ、時が過ぎれば自ずと分かる」
 そう唇の片端を上げると、彼女は少しムッとしてから、再び手元を動かす。少し経ってそばに腰かけると、ワタシに気づかずひたすら鉛筆を走らせていた。
 しゃっ、しゃっ、と紙を滑る音が心地よくて、いつの間にか目を閉じていた。風や草木の音に、不規則に入り込んでくるそれは、違和感だけど。
 ワタシは、好きな音だな。
 ちらりと、彼女の姿を見据える。するとわざとではないのだが、彼女の絵が見えてしまった。ワタシも嫌がることを本当にしたいとは思わないから、完全に事故だった。
 彼女が描いていたの、ここから見える風景。
 誰も手入れすることのない鳥居と、そよ風に揺れる木々。それらを包み込むように茜色に染まる空は、あの頃の人々の笑顔のように温かく、優しかった。白黒なのに色を感じていて、不思議だった。
 もう、その光景を思い出すことはできないけど。
 優しい絵だな。
 描く時は、あんなにも忙しないのに。
 ……そうか。
 私はこの絵も、彼女の描いている後ろ姿もひっくるめて。
 心惹かれているのかもしれない。
「好きだな、ワタシはこの絵が」
 溢れ出た言葉に、彼女は飛び跳ねるようにこちらを振り返る。どうして見てるの、とでも言いたげな睨んだ目つきに、ワタシは気づけば失笑していた。
 どう見ても、描き始めたばかりではなさそう。
 それでも見せたくないのは、きっとプライドの高さゆえなんだろう。
 羨ましい。素直にそう思った。
 時が進むにつれ、ワタシが過去に忘れてきてしまったものだから。
「ねえ」
「何だい?」
「私の絵、好きなの?」
「ああ、好きだよ」
 もう一度だけ言葉にすると、彼女は俯きがちになる。覗いてみると、やや頬を赤く染めていて、「なんか、うれしいかも」とちらりとこっちを見た。
「完成したら、見てくれる?」
「もちろん」
 目元をめいっぱい広げた、夕暮れ時の日差しのような彼女の微笑み。すぐに再び、鉛筆を握る手を動かした。こっちには目もくれず、彼女の微笑みはほんのひと時の出来事だった。
 初めて見た笑顔だった。
 そして、不覚にも。
 ワタシは彼女の笑顔を、何よりも素敵だと思ってしまった。


 永遠に、このひと時が続けばいいのに。
 この世に出てきて、ワタシは初めてそう思ってしまった。
 これまで、時間というものはあっという間だった。
 知らないうちに何年も過ぎ去っていて、気づけば見たこともない人でいっぱいになっている。その内もう、人の顔を覚えることすらやめていた。
 時間というものは、私には空虚なものだった。
 それなのに、今は時間というものがとても早く感じたり、果てしなく長く感じたりする。一秒、一分という単位は、昼だろうが夜だろうが同じはずなのに。
 ただ、いつだって変わらないのは。
 その時間の大体が、彼女のことばかり考えているということだった。
「この絵、どう思う?」
 そう聞かれ、ワタシが感想を返す。この流れが形式になっていて、気づけば彼女の制服は三回目の夏仕様になっていた。前と変わらずあっという間だったが、彼女との日々からの記憶はしっかりと覚えていた。
 彼女は以前より、もっと楽しそうに絵を描くようになった。黙々としているのは同じだけど、何となく意気揚々としているのが分かる。それにつれて、素人目にも絵が上手くなっているように感じる。
 それは見ているワタシにとっても喜ばしいことだった。
「ねえ、何か欲しいものある?」
 いつもとは違う質問に、少し理解するのに時間がかかる。
 欲しいもの、か。
「考えたこともないな」
「え、ほんとに?」
「本当に」
「なら、今から考えて」
「そんな無茶な」
 と言いつつ、彼女の頼みだからと考えてみる。どうして聞かれたのかは分からないけど、もしかしたら何か重要なことなのかもしれない。
 欲しいものか……正直なところ、今までなら何もなかったと思う。欲というものが、そもそもワタシには備わっていないような気がするから。
 だけど、今は違った。
 近頃、気になるものがあった。
「砂時計、かな」
「砂時計?」
「欲しいかはまだ分からないが、興味はある」
 そう思うようになったのは、時間というものを意識するようになったからだろうか。世の中でよく使われている普通の針の時計でも良いのだが、砂時計のほうがより時間というものをより感じられるような気がしていた。
「それなら今度持って来るよ。私、お気に入りの砂時計持ってるから」
 彼女はそれから、砂時計のことを楽しそうに話した。
 若葉のように青々しく、無邪気で、ついこちらまで笑みが零れてしまう。ワタシは手を伸ばし、彼女の頭に触れそうになる。けど、寸前で止め、背中に手を引っ込めた。
 何をしているんだ、ワタシは。
 ……いや、分かっていた。
 愛おしいと、思ってしまった。
 それは、今に始まったことではない。
 ここ最近のワタシは、ずっとそうだった。
 普通なら、愛おしいと思えば、彼女が嫌がらなければ頭を撫でても良いのだろう。
 触れたいと思うのも、とても当然のこと。
 だがワタシは、決して抱いてはいけない感情だった。
 それなのに、その枷が決壊し始めるかのように、心と感情をうまく閉じ込められなくなっている。
 もっと、彼女に近づきたいと思ってしまう。
 そんなこと、絶対にあってはならない。
 いったい、どうすればいいのだろうか。
 そうしばらく悩むけど、もうとっくに答えは出ていた。というより、ワタシがするべき行動は、たった一つしか残されていなかったのだ。
 ずっと、考えていたことだった。
 彼女を、傷つけないためにも。
 ワタシはその日から、彼女の前から姿を消したのだった。