いつものように、トーストの焼ける匂いがして目が覚めた。


 俺はひとつ伸びをして、ベッドから起き上がった。



 深夜までネットゲームをしていたので少し頭が痛い。



「おはよう、一弥。また遅くまで起きてたの?」


 キッチンに入ると、母親が朝食の支度をして待っていた。


 俺はトーストにジャムを塗り、無造作にそれを貪り食う。


 味なんかどうでもいい。美味いとか不味いとか、興味はなかった。


 何か言いたげな母親の視線に気づかないフリをして、俺はさっさと席を立って自室に戻った。



「さーてと、始めっか!」


 自分を奮い立たせるために声を出し、神妙な面持ちでパソコンを起ち上げる。


 唯一の趣味であるネットゲームを朝から晩までやり込むのが俺の日課だ。


 もちろん、途中途中で休憩を挟むし、三度の食事もしっかりとる。


 我ながら規則的で健全な生活だと思う。


 「働いたら負け」ではないが、人生は一度きりしない。


 自分の好きなことをして生きて、何が悪いのだろう?



「最近じゃお父さんの遺産も尽きて、私の年金だけじゃ生活が厳しくなってきてね。一弥もそろそろ……」


 いつかの夕食の席で母親にそんな辛気臭い話を切り出されたとき、俺は苛立ってテーブルを思いっきり叩いたことがある。


 その拍子に味噌汁がこぼれたが、それすらも忌々しく思えた。



「今さら俺に何を期待してるって言うんだよッ! ここまで俺を甘やかしたのは母さんだろ? 最後まで責任持てよ!」


 自分の感情を上手くコントロールできない幼稚さが俺の欠点だ。


 子供のように地団駄を踏みながら、母親に向かって拳を振り上げる。


 身の危険を感じたのか、母親はそれ以上何も言わずにうつむいた。



 鬱々としながら、ゲーム三昧の日々。


 そんな生活に飽きて、気まぐれに働いてはみたものの、甲斐性のない俺には働き続けるということが難しかった。


 世間ではそういう人間を【ニート】や【怠け者】と呼び、働かざるもの食うべからずと糾弾する。


 でも、俺の何を知ってるって言うんだ?


 だって俺は働くために生まれてきたわけではないのだから。


 働ける奴は勝手に働けばいい。俺は働けないし、働くつもりもない。


 たとえ、ニートだの子供部屋おじさんだのと嘲笑われようとも、後ろ指をさされようとも。


 親に生かされながら、今日も現実逃避をする。



 ゲームの世界の俺は、有能で人望にも厚い勇者だ。


 チャットでの会話はお手の物。


 グループリーダーとして仲間から慕われている。


 【レッド・シン】というユーザーネームを持つ俺は、その界隈では知らない者はいないのではないかと思う。


 この世界こそが、俺の全て。


 そう、言うなれば俺の職業は【勇者】だ。



「ハハハハッ!!」


「ねぇ、一弥。今日あんたの誕生日だから、好きな物を作ってあげようか」


 ゲーミングチェアにふんぞり返って高笑いをしていると、母親がドア越しに声をかけてきた。


 あれ、今日って俺の誕生日だっけ……?


 ゲームの中の俺の誕生日は約一ヶ月前で、そのときは仲間内から大いに祝福された。


 リアルでは自分が何者なのか、考えたくもなかった。



「……んー。じゃあ、天ぷらがいいな。野菜だけじゃなくて、ちゃんと海老も入れてくれよ」


 俺は少し考えてから、意地悪な笑みを浮かべながら答えた。


 揚げ物系の料理が得意ではない母親への挑戦状のつもりだった。


 母さんに、天ぷらが作れるのかな?



「分かったよ。……最後の晩餐だからね」


「え? 今なんて言った?」


 不穏な呟きが聞こえたような気がしたが、きっと聞き間違いだろう。


 聞き間違いではなかったとしたら、俺の人生は今日で終わりかもしれない。



 その日の夕方、ゲームをしているとキッチンの方から焦げ臭い匂いが漂ってきた。


 コンロの上の鍋がひっくり返り、大きな火の手が上がっていた。


 母親は逃げるでもなく、じっと目の前の火を見つめている。




「やっぱり……。母さん、そういうことだったんだな」


 俺はその場に立ち尽くしたまま、冷静さを保とうと努めた。


 早くも脳が現実逃避を始めていた。


 俺は勇者だ。逃げるわけにはいかない。


 早くこの火をどうにかしないと……。


 しかし、ゲームではどんな敵にも対処できるのに、現実世界の俺は燃え盛る火の消し方すら分からなかった。



「一弥。逃げないでいいの?」


「……母さんが逃げるなら、一緒に逃げる」


「そう……困った子ね。こっちへおいで。私が最期まで、あなたの面倒を見るから」


 父親が死んでからずっと能面だった母親が、泣き笑いの表情を浮かべて俺に向かって両手を広げる。


 俺は泣きながら、母親の腕の中に飛び込んだ。


 ──良かった。俺は、最後まで見捨てられなかったんだ……。


 母親の腕に包まれながら、つかの間の幸せを噛みしめていた。


 灼熱の地獄が俺を襲うまで。






 翌朝、新聞の片隅に次のような記事が載っていた。




《東京都A区に住む無職・杉本ユリ子さん(81)宅から出火していると、近隣住民から通報があった。2時間ほどで火は消し止められたが、焼け跡から男女2人の遺体が見つかった。女性はユリ子さん、男性は同居する息子の一弥さん(58)と見られ、現在身元の特定を急いでいる》





【引きこもり・完】