「無理しなくていいよ。そうだ、うちの家政婦できてる人に、夕方あたりこっちにも来てもらうように言っておくよ。料理はその人に任せればいい。夕飯はそうしていこう」

「え、でも……」

「無理に働こうとしなくていいよ。咲良ちゃんは別に家にいるだけでいいから」

 柔らかな声で言ったその言葉に、私はただ打ちひしがれた。

 それはつまり、妻としてなんて何も動かなくていい。ただお飾りとしてそこにいればいい。

 そういう、こと。

 パンを持っている手が震える。わかっていたんだ、書類上だけ夫婦になったけど、私たちはまるで他人だってこと。家族になんてなれるはずがない。

「咲良ちゃんは自由にしてていいんだよ。やりたいことをやればいい。まだ若いんだし、友達と遊んだり買い物をしたり習い事をしたり。何でもしていいから」

「……はい」

「カードを渡しておくから好きなものは何でも買い揃えておいで。新生活で必要なものだってあるだろうから」

 そう言って蒼一さんはカードをテーブルの上に置いた。私はそれをただぼんやりと眺め、もう喉を通りそうにないパンを持ったまま固まった。

「僕は今日残業があるから、帰り遅くなると思うから」

「……はい」

「先寝ててね」

 そういうと、いつのまにか食べ終わっていた蒼一さんは食器をキッチンまで運んでその場から立ち去った。私はまだほとんど残っている食材を見つめながら虚しさに溺れる。

 美味しい食事、好きな人と向かい合う朝。状況的には最高に幸せなのに、心の中には侘しさしか残らないよ。

 これじゃ夫婦じゃなくて、同居人みたい。

 お姉ちゃんのことが好きな蒼一さんが、すぐに他の女と夫婦になる方が難しいとは思う。それは彼の誠実さを物語っているとも言える。

 でもそれでも……それにしても……

「じゃあ咲良ちゃん。僕行ってくるから、ゆっくりしててね」

「あ! は、はいいってらっしゃい!」

 蒼一さんは軽く手を振ると、そのまま玄関へと向かっていった。追いかけて玄関まで送ろうかと一瞬思ったが、きっと彼は断るだろうなと思ってやめた。

 遠くで鍵を施錠する音が聞こえる。ああ、出ていったんだな、とぼんやり思った。

 もう冷めた食事たちを、私は一人食べた。先に寝てていいってことは、夕飯も一緒には食べないんだろう。

「……寂しい、なあ……」

 自分の小声が、小さく響いた。






 一通り部屋の掃除などを終えた私は、それでもたっぷり時間が余ってしまったため、一旦外へと外出した。蒼一さんがくれたカードで買い物をする気なんてなかったが、見知らぬ家で一人過ごすのはどうしても気が引けたのだ。

 天海家からこっそり出た私は、いくあてもないまま歩き出した。実家に帰るのもしたくない。私と蒼一さんの結婚を、お母さんは後悔してるようで、お父さんと未だよく喧嘩しているのだ。母から見れば、姉の身代わりにさせられた可哀想な妹、になっているんだろう。

 空は晴れて真っ白な雲がわたあめみたいで美味しそうに見えた。肌寒い春の風は、心地いいけど一人で感じるには辛い。

 妻としても中途半端で、一体これからどうやって過ごしていけばいいのかわからなかった。夕飯すら作る役割もない。……だが今思えば、私は料理は得意じゃないから正解だったのかも。微妙な料理を蒼一さんに食べさせるの気が引ける。

 お姉ちゃんならなあ。料理もぱぱっとできるのになあ。

 蒼一さんの元へ嫁ぐことが決まっていたお姉ちゃんは、料理教室とかも習わされてしっかり花嫁修行していた。私はといえば、「いい相手ができたら通えばいいわよね」とか母に言われて何もしていなかった。おかげさまで腕前は微妙なものである。

 せめて。美味しいご飯を作れるようになれば……借りたカードで料理教室の予約でもしようかな。

 一人ぼんやりと散歩していた時だった。

「咲良?」

 聞き慣れた声がして振り返る。短髪の黒髪、日に焼けた肌は健康的だ。がっしりした肩幅に高い身長は目を引く。立っていたのは友人の北野蓮也だった。