白いシャツの少年 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】

 「さつき」や「りんどう」など、華の名
が記された個室が20ほどもあり、当てずっ
ぽうで扉を開けるには勇気がいった。仲居
をつかまえて道を尋ねようかとも思ったが、
皆忙しそうにしていて何となく『迷子』で
あることを伝えづらい。

 「……参ったな」

 歩き疲れた千沙は立ち止まり、大きな嘆息
を漏らすと、燦々と陽が降り注ぐ日本庭園を
見つめた。


――その時だった。


 とんとん、と肩を叩かれる感触があり、
千沙は安堵に頬を緩めた。きっと、自分が戻
らないことを案じた母が迎えに来てくれたに
違いない。そう思いながら振り返った千沙は、
そこに立つ人物を見た瞬間に、絶句した。

 そこには、仕立ての良さそうな深緑のスー
ツに身を包んだ、少し長めの前髪をさらりと
後ろに撫でつけた、侑久が立っていた。

 「……んなっ!!!?」

 「何で!?」と叫びたかったのに、あまり
に驚きすぎて言葉にならない。初めて見る
スーツ姿の侑久は制服姿よりさらに理知的
で、魅力的で、騒ぎ出した心臓が口から飛
び出してしまいそうだった。その様子に目
を細めながら、しぃ、と口元に人差し指を
あてると、侑久は穏やかな声で言った。

 「もしかして迷子にでもなった?」

 そのものズバリを言い当てられて、千沙
は思わず首を縦に振ってしまう。


――どうして侑久がここにいるのか?


 まずはそれを訊かなければならないのに、
するりと千沙の手を取って歩き始めた侑久
の背中を、千沙はただただ見つめることし
か出来なかった。

 「大丈夫だよ。俺が連れてってあげる」

 そのひと言に「えっ?」と声を漏らすと、
侑久は千沙を振り返り、にぃ、と笑んで見
せる。その顔が、悪戯を愉しんでいる子供
のように見えてしまい、千沙は眉を寄せた。

 「連れてくって、どの部屋を予約したか
知ってるのか!?」

 「もちろん、知ってるよ」

 即答した侑久に、千沙はまたもや二の句
が継げない。そうして侑久に手を引かれる
まま、誰もいない廊下を進んでゆくうちに、
最奥の個室の前へ辿り着いてしまった。

 部屋の前に立ち格子戸の横にある木札を
見れば「ふじ」と墨文字が書かれている。


――はて、仲居に通された個室は「ふじ」
の間だったろうか?

 曖昧な記憶を辿りながら首を傾げていた
千沙の背に手をあてると、侑久はすらりと
格子戸を開け、「ここだよ」と招き入れた。
 
 「……あ、ありがとう」

 促されるまま個室へと足を踏み入れ、
そうして緩やかに目を見開く。

 部屋の造りはまったく同じように見える
が、壁一面の窓の向こうに見える景趣が
さっきと違う。しかも、目の前の庭へと
降り立つことの出来る縁側があり、その
窓際に立つ両親の姿もなかった。