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「清宮先生」


その日は快晴だった。
中庭に大きく立つ松の木を暖かい風が揺らしていた。

職員室からグラウンドを覗いていると、外で遊んでいる生徒たちが名前を叫びながら手を降ってくる。

廉は生徒達に見えるように大きく手を振り返した。


教師になり、最初からクラスの担任を受け持つことになって、数ヶ月の月日が経つ。

教師という立場になった日から、廉は何を得て、何を失敗して、何を学んできたのだろう。

きっと思い返すことはたくさんあるけど、一つ一つが大事なものばかりだった。そんな毎日をいろんな生徒と交流して過ごしている。


「いっぱい汗かいて、思いっきり遊びなさい」


そう叫ぶと、生徒たちは楽しそうに反応をする。いつも思う。子供達の笑顔がどれほど大きなエネルギーとなっているか。


自分が今通っている職場の学校は、特別支援学校だ。子供ひとりひとりの個性を大事にして、細かいところまで指導にあたっている。

発達障害の子や、ひきこもりなどの不登校で学校に行けなかった子など、様々な子が通っているが、基本的に一般の学校で通っている子供達の生活と変わりはない。

だけど、やはりいろいろな問題が関わってくる。子供達と向かい合うことは難しいことばかりだが、それに対して何の苦も感じない。

問題を抱えた生徒たちと互いに向き合うことが自分の使命だとも思っている。生徒と共に自分自身の成長の日々を過ごしている。



昼休憩。隣の席の先生が、自分のお弁当を覗いて言った。


「清宮先生のお弁当美味しそう」

「全部手作りなんですよ」

「彼女さんか誰かに作ってもらったのかと思いました」

「いえいえ、そんな人はいません。仕事一筋です」

「もったいない、イケメン教師なのに」

そう言われて軽快に笑って否定する。

「清宮先生に憧れている生徒はいっぱいいると思いますよ。そうそう、教育実習生の話、聞きました?」

「教育実習生?」

「今日から来る大学生の子達の教育実習についてなんですけど」

「はいはい、来ますね、何人か」

「いや、それがね、実はその中で清宮先生を知ってる子がいましてね」


「私のことをですか?」

「清宮先生の後輩と聞きました。あなたに憧れて、今の教師という夢を目指し続けていると」


心臓が大きく鳴り続けた。


「そんな憧れる存在なんて。新任ですよ?ついでに、その子の名前は」

「たしか、教育実習の詳細が書かれているリスト持ってますよ。名前は…」



隣の席の先生は資料見ながら名前を探る。
記憶が走馬灯のように蘇る。

まさか、と思った。期待で胸が高鳴る。文字に変換できない気持ちが高ぶり、気持ちよりも先行して涙が溢れそうになる。

頭の中で彼女の名が浮かんだ。




「せんせい」


昔を思い出していた時、生徒の小さな声が聞こえて、我に返った。職員室に一人の女子生徒が入ってきた。その生徒は泣いていた。


すぐにその子に近づいて一緒に職員室から出た。そして、その生徒の背の高さに合わせるように屈む。
優しく笑いかけると、目の前の生徒は安心した顔を見せた。


「どうした?」
「こわい」
「怖い?何が?」
「いじめる」
「誰にいじめられたの?」
「だんし」


目の前にいる女子生徒は自閉症の持ち主で他者とのコミュニケーションをとるのが少し苦手だ。しゃべり方も一言が短く、あまり声を発しない。


「そっか。何をされたんだ?」
「これ」

女子生徒はきらきらとした模様の色ペンを出してきた。

「これ、こわそうとした」
「このペンも壊そうとしたのか。それはダメだね」
「お父さんに」
「・・・お父さんに?」
「お父さんにもらった」


この色ペンはお父さんにもらったもの。
男子が壊そうとしたから許せなかった。
彼女はそう言って泣きそうになっていた。


「このペン、すごく可愛いね。お父さんはすごく優しい人なんだね」


目の前の女子生徒は手に持っていたペンを大切そうに胸に当てた。微笑んで、頭を優しくなでた。


「大丈夫。君は強い子だ。泣き顔は似合わないよ。笑った顔を見せて」


すると、そのとき。向こう側から廊下を走ってくる一人の男子生徒が見えた。彼女と同じクラスメイトだ。その男子生徒は近づいてきて口を開く。


「もう大丈夫だよ」

廉はその2人の様子を黙って見守る。

「もう、僕がいるから、大丈夫だから、教室にもどろう」
「・・・」
「大丈夫、ほら」

男子生徒は手を差し伸べた。

女子生徒はその手を自分から握りにいく。

2人は手を繋ぎ合うと廊下を走り、教室へと戻っていった。

そんなふたりの光景を呆然と見ている俺に、走っていく女子生徒は一度振り向いてきた。

彼女は満面の笑みで微笑んでいた。2人が楽しそうに走っていく光景を見て思った。


きらきらとまぶしいほどに輝いている。世間は暗いニュースや、胸を痛ませる悲しい出来事で溢れているけれども。まだ、未来は明るい。


自分は昔、過去を思い出そうとするたび、声を失っていた。心がとても弱かった。

だけどまたこうして声を取り戻し、昔憧れた先生を目指して教師となっている。

これからもこの仕事を続けている間に、いろいろなことを学ぶだろう。光と闇のどちらも見ていくのだろう。だけど、不安にならなくてもいい。きっと、しっかりと生きていける。

幸せはいつも、握りしめた片手の中に収めている。そう心から思う。






「先輩」

そのとき、後ろから声が聞こえた。

懐かしい声だった。


優しい声だった。

変わらない声だった。



ーーーーー誰かが近くにいた。

名前を呼ばれて振り返る。


振り返った先に、どんな未来があるのだろうか。それは誰にも分からない、だけど。



『‥‥今日から教育実習でお世話になります、西野莉子です。先生のような教師になりたいと、思ってます』


彼女の表情は、昔よりも明るかった。


僕には、わたしには。


大切な人がいる。

その人のために、生きていこうと思う。








     「帰り道、きみの近くに誰かいる」