私は会社を定年退職してから、工場の守衛についた。
 もともと夜勤業務をしていので、朝方始発と共に家路につくことは苦痛ではなかった。
 妻とは熟年離婚をしているが、子供とは時々電話で話したり、孫を見に行く位には良好な関係でそれなりに恵まれているほうだろう。
 私は紙袋に制服を入れたまま、まだ薄暗い最寄り駅を降りた。

「明日は雨か。我が家にも乾燥機付きの洗濯機が欲しいもんだ」
 
 制服の支給はあるものの、洗濯をするタイミングを逃すと、出勤日に汚れた制服で勤務しなければならなくなる。
 ラジオから流れる天気予報だと、明日は大雨で寒波、制服は乾きそうにないな。
 そう言えば、アパートの近くに寂れたコインランドリーがあったはずだ。

「コインランドリーなんて、学生のとき以来だな、懐かしい」

 安アパートに暮らしていたときは洗濯機が無くて、よくお世話になっていた。
 夜明け前の薄暗いコインランドリーの中は電球が切れかけていて、不気味だったが静かで読書には適している。
 私は制服をランドリーの中に入れると、読みかけの歴史小説を手に取った。

「……ん?」

 目の端に何か通ったような気がした。
 顔を上げて見ると、奥にあるランドリーの列に腰の曲がった老婆の着物の裾が見えた気がした。
 こんな朝早くから、コインランドリーで洗濯なんておかしな話だが、年寄りの朝は早いと言うし、早朝から洗濯機を回しては近所迷惑になると思ったのだろうか。
 私は凝視するのも失礼だと思い、歴史小説に目を落とした。

 だが、ヒタヒタと何度も通路を往復するような足音が聞こえ、段々と集中できなくなってきた。
 落ち着きのないばぁさんだ。
 顔を上げると、白髪頭のてっぺんだけが行ったり来たりしていて気味が悪い。
 もしかして、あのばぁさん痴呆症なのかも知れないな。

「あの、良かったらこちらに椅子があるので座りませんか。疲れるでしょう」

 ばぁさんの動きがピタリと止まり、ランドリーの隙間から、鼻から上を出して無表情のまま目を大きく見開くと瞬きもせずに私を見た。
 正直に言うとゾッとした。
 なんの感情も読み取れないのに、目だけが異様に大きいのが言い知れぬ恐怖を感じた。
 しばらくしてまた通路を行ったり来たりするので、私はため息をついてそちらに向かった。
 もしかしたら耳が遠くて聞こえなかったのかも知れない。

「だい………」

 通路を覗き込むと、ばぁさんの姿は無かった。
 それどころかランドリーが使われた形跡も無く、私は全身に冷水を浴びせられたような恐怖を感じて動けなくなった。
 そして私は今になって、数年前に老婆が息子に滅多刺しにされ助けを求めて力尽きた先が、このコインランドリーだった事を思い出した。


 ――お、ぉとぉなり、あいでまずぁかァ


 ゴボゴボと血でくぐもったような老婆の声が背後から聞こえた。