四角い部屋の水槽 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】

 なのに、“元気にしてる?”と、自分から
メールを送れるほど、吹っ切れているわけ
でもなかった。
 だから俺は、前にも後ろにも進めない
どころか、右も左も向けないほど、心が
行き場を失くしていた。



 だからその日の夜、外回りから帰社した
俺は、更衣室から出てきた彼女を見つけた
瞬間、躊躇いもなく彼女に声を掛けること
が出来たのだった。

 「折原さん!」

 その名を呼ぶのは、久しぶりだった。
 俺の声にくるりと振り返った彼女が、
「滝田くん」と変わらぬ笑みを向け、
立ち止まってくれる。俺は駐車場から
廊下へと繋がるドアを閉めると、早足に
彼女の元へと歩み寄った。

 「久しぶり。珍しいな。こんな遅くま
で残ってるの」

 そう言って、ちらりと腕時計を見やった。
 時刻は21時になろうとしている。

 「うん。実はね、昨日から五十嵐さん
が風邪でお休みしてて、帳簿と店の残高
を合わせるのに手間取っちゃったの」

 その言葉に俺は思わず、「えっ」と声を
漏らす。まさか彼女が風邪で休んでいると
は、思いも寄らなかった。

 「そっか。五十嵐さん、休んでるのか。
知らなかった。確か、去年もこれくらい
の時期に休んでなかったっけ?ほら、
地震があったとき。あの時も折原さん、
一人で残ってたよな」

 「そう言えば……そんなことあったね。
一人で仕事してたら榊専務が戻ってきて、
それで、突然、緊急地震速報が鳴って」

 懐かしむように言って、彼女が目を細め
る。その表情はやはり、どこか遣る瀬無さ
を感じさせるもので、心の中にはまだ“あの
人”がいるのだと、暗に悟ることが出来る。

 「専務の車で送ってもらったあの夜から、
もう一年か。早いもんだな。あの後、すぐ
に背の低いキャビネット買い足して、上か
ら物が落ちてこないようにフロア内を改善
したんだよな。あの人は本当にやることが
早いって言うか、決断が速いって言うか。
社員を守る、っていう責任感が強過ぎて、
本人はしんどかったみたいだけど」

 俺たちを送る道筋で、「心を赦せる同期
も、飲みに行ける仲間もいない」と、彼が
ふと覗かせた本心。

 何もかも完璧で、鷹揚自若としていて、
恋敵として脅威すら感じていたというのに
……今もまだ彼を想い、この場を動けずに
いる彼女を目の当たりにすれば、なぜか
“戻ってきて欲しい”とさえ思ってしまう。



-----自分じゃダメなのだ。



 と、ようやく、そう受け止められたから
かも知れない。俺は小さく息をつくと、
その心のまま、口にした。

 「戻ってくるといいな。あの人」

 その言葉に、はっと顔を上げ、彼女が俺
を見つめる。そんな言葉が俺の口から出て
来るとは、思ってもみなかったのだろう。
 彼女はどう答えればいいかわからない
といった顔で、尚も俺を見つめている。