やけに心臓の音が鮮明に聞こえて、研ぎ澄まされた耳が遠くの葉擦れの音を拾い出し、多くの音が脳を支配する。それでも先生の言葉はそれらを押し込むように、頭から冷水を浴びせるように脳髄に響き渡った。

「逃げるんですか」

 そこに冗談も、茶化しも、ともすれば感情すらない声音。思わず身を乗り出し、胸倉を掴んで合わせた視線が熱い。
 目が焼けるように痛く、肺を満たすのはまるで毒素だ。
 そんな私にも先生は動じることなく、そっと私の手の上に重ねられた手が熱を持っていた。
 否、冷えきっているのは私の手だった。

「私は、もう、」

「変わりませんよ、あなたがそのままでは」

 幼子を諭すわけでもなく、淡々と突きつけられた事実。私が心の底ではわかっていた、最もなこと。最も過ぎて、何も言い返せない。
 途端に自身の愚かさを思い出し、慌てて手を離すと、小さく息を吐く先生。

「ごめんなさ、」

「いいですよ、俺が意地悪し過ぎましたから」

 手を上げそうになったことに、傷付けてしまいそうになったことへの謝罪に、先生は優しく微笑んだ。けれど、その瞳の奥に少なからずもあったのは紛れもない恐怖で、このままどこか深い水の底へと沈みたくなる。
 どうして私は傷付けることしかできないのか。自身の重ねた罪を嘆きたくなる。
 もう見たくはないのに、とじわじわと浮かぶ後悔の念。

「俺は何も知りません」

 先生は椅子に座り直し、ネクタイを直して言った。

「だからこそ言います。逃げていては、何も変わりませんよ」