検非違使の女



 庭先からふわりと薫る花橘に、思わず足を止めた。
「もう、こんな季節でしたのね」
 慌ただしい日々の中で庭を眺めることも久しぶりだが、思い起こせばもう五月(さつき)も半ばを過ぎようかという時期である。朝日を浴びて背筋を伸ばしよくよく目を凝らしてみると、生い茂る青々とした下草やよもぎの葉に、このところ続いている梅雨の雫がきらりと光っていた。
春野(はるの)はどこにいて?」
 首を振って辺りを見回すと、その女房……春野はすぐに飛んできた。
「はい、はい。姫さま。こちらに」
 もうそろそろ四十路にもさしかかろうという年齢なのに、相変わらずそれを感じさせない身のこなしだ。長い(ころも)の裾さばきも軽快で、さすがは御所務めの経験を持つ古顔である。
「今年の花は特別きれいな色をしているわ。取ってきてくれる?」
 
 ここは橘花邸(きっかてい)。高辻公路と堀川小路の交わるところにある、小さな貴族の屋敷である。主人は遠い昔に逆賊の汚名を着せられ、左遷された三位中将信実(のぶざね)……とはいえその人はもうこの世にはいない。今この屋敷で暮らしているのは、その北の方(正妻)と一人娘・真紀(まき)という二人の女君であった。
真紀は父親の記憶が薄い。というより、ほぼないと言ってよい。信実が遠い筑紫の土地に流罪の憂き目にあったのは祥来十一年のことで、真紀はまだ三歳だった。それから間もなくして、彼は貿易商たちの間で流行していた疱瘡に罹り、帰京することなく亡くなった。以来、北の方は女手一つで再婚もせずに真紀を育てた。
 この時代に女だけで屋敷を維持していくのは大変なことで、橘花邸はひどく貧しかった。北の方が屋敷を相続できたのは信実に嫡子がなかったのが理由だが、人に関してはどうしようもなく、仕えていた者達は次々と辞めていった。










 真紀は乳母に頼んでひと枝貰ったその花を、朝餉と共に母屋へと運んだ。昨年の冬から長く病床に着いている、母の橘夫人(たちばなふじん)のためである。
「おたあさま。今日はお加減もよろしげですのね」
 母屋に着いた真紀は、久しぶりに起き上がって髪を整えている母の姿に、思わず顔をほころばせた。
 夫を亡くした独り身の母が病に倒れて、もう、半年以上の月日が経つ。ここ最近は特に酷くてずっと起き上がることすらできない様子だったが、今日はだいぶ良くなったらしい。
「ええ。信賢(のぶかた)の薬が効いたようでね。何だか気分がいいの」
 穏やかなほほ笑みを浮かべて、夫人は答えた。その顔色は青白さはあるものの、熱に浮かされていた昨日よりもずっと健やかだ。
 信賢は典薬寮の官僚で、薬や医学に精通した、夫人の弟だ。真紀にとっては叔父にあたる彼は母が倒れてから、度々見舞いにきては薬や看病のための布などをくれていた。昨日も彼が煎じたという薬を飲ませたのだが、そのおかげで幾分か具合が良くなったらしい。
「表の庭に、橘の花が咲いていたのです。ほら、綺麗でしょう」
 真紀は納戸で見つけた古い青磁の壺に、その枝を挿して飾った。
「あら、ありがとう」
 夫人は柔らかに微笑むと真紀の手をとって、その顔を見あげる。
「あなた。このところ、ちゃんと眠れていないのですってね。もう自分の部屋に下がっておやすみなさい。春野も心配しているのですよ」
「そんな、わたくしは大丈夫です」
「」

「……どうか、幸せになってね。あなたのことを、ずっと見守っていますよ」
 枕元で倒れるように眠ってしまった真紀の頭を、夫人は優しく撫で続けた。夫人の容態が急変してその息が絶えたのは、それから二刻半ほど経った、昼のさなかのことだった。

 


 母の葬儀はしめやかに行われた。親しかった寺の僧を呼び、ごく僅かな身内だけを集めて遺体を荼毘に付した。
 それらが一段落ついてから、真紀は魂の抜けたような生活をしていた。
(もう、おもうさまもおたあさまもいない。わたくしは独りなのだわ)
 限りなく黒に近い喪服の袖で、こぼれ落ちる涙をぬぐった。
 この先はもう、自分ひとりで生きていくしかないのだ。両親を亡くした女、ましてや逆賊を父に持つ娘がのうのうと生きていけるほど、この時代は甘くはない。
「姫さま」
 聞こえてきた声に、真紀は慌てて振り向いた。気遣わしげにこちらを覗いていたのは、春野の娘であり真紀にとっては乳姉妹にあたる、萬葉(まよ)という少女である。


「心配しないで」
「でも、姫さま」
「わたくしは大丈夫。大丈夫よ」
 それは萬葉に向けての言葉ではなく、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
 萬葉はしばらく狼狽えていたが、やがて、意を決したように口を開いた。
「あたしは姫さまの味方です。たとえこの先なにがあっても。だから姫さま、絶対に姫さまはひとりじゃないんです」
 その言葉に、真紀はようやく顔を上げた。そして堪えようともせずに大粒の涙を流し、萬葉に抱きついた。
「よーしよし。姫さま、喪服を脱げる季節になったら、二人でたくさん遊びましょうね。物見遊山にも参りましょう、美味しいものも沢山食べましょう。だから今は、泣きたいだけ泣いてください。我慢しなくてもいいんですよ。あたしがいます。あたしがそばに居ますから」