その土曜日はクリスマスイブ当日だった。今日で年内の講義期間は終了、そして奈央子のアルバイトも今年はこれで終わりである。
 片づけをしてバックヤードに立ち寄り、担当職員や顔なじみの人々に挨拶をして回る。
 「あ、沢辺さん。ちょっと」
 手招きをしたのは、昨日今日とケーキを売りに来ていた、駅前のパティスリーの女性店員。奈央子は本来の持ち場である文具売場と掛け持ちして、何時間か販売を手伝った。招きに応じて近づくと、「これ、持ってって」とパティスリーの紙箱を渡される。
 「え、いいんですか?」
 「いいのいいの。持って帰っても処分しちゃうだけだから。適当に三・四個入れてあるけど、もし他に欲しいのがあったら」
 「いえ、充分です。ありがとうございます」
 「こっちこそすごく助かったわ、お疲れ様」
 良いクリスマスと新年を、と言い合って別れ、奈央子は裏口から外へ出る。すっかり冷たくなった空気が袖や襟から入り込むように感じ、思わずマフラーを巻き直した。
 時刻は四時半過ぎ。構内はかなり閑散としていたが、駅に近づくにつれ人の姿が増え、ターミナルに近づくごとに電車は混雑を増した。日にちと時間帯を考えれば当然だろう。
 ターミナルで改札へ向かう人波を横目に、奈央子は自宅最寄り駅のある路線に乗り換える。今日はこの後の予定はない。どこも混んでいるだろうしケーキはもらったし、家で夕食にしてゆっくり過ごそうと思った。
 ──例の一件から二ヶ月近く。すでに遠い出来事のようであり、それでいて、思い出そうとすればまだはっきり思い出せる。
 あれから何日かして、唐突に彩乃に『羽村がちゃんと話したいって』と言われた。柊と二人で会って、彼の話を聞いたのだという。
 『五限空いてるでしょ? 文学部の裏の広場で待ってるから行ってやってよ。気が進まないのはわかるけど、ともかく聞くだけでも』
 どうしてか、彩乃はやけに熱心だった。だがどんなに熱を込めて頼まれても行く気にはなれなかった。二人きりが嫌なら一緒に行くから、とまで言われても。
 何であれ聞きたい話とは思えなかったし、柊と顔を合わせること自体、まだ怖くもあった。待たせた上に行かないのは悪いと思ったけど、どうしても踏ん切りがつかなかった。──翌日のドイツ語で見かけた柊は、偶然か故意か、一度もこちらに目を向けなかった。
 それ以後、講義以外の場で見る柊はいつも一人で、妙に急いでいるような時もあった。里佳も何度か見かけたが、友人と一緒の時はあっても、柊といるところは見なかった。
 二人が別れたらしい、と聞いたのは大学祭が終わった後だったろうか。心が揺れないわけではなかったが、『言う気、ないの?』との彩乃の問いにはきっぱり首を振った。
 あの件を引きずっているのは柊も同じだろうし、自分が髪を切ったことも気にしているだろう。奈央子はあくまで自身のけじめとして切ったのだが、彼が何も感じていないはずはない──そういう性格だから。
 里佳とのことも、理由はわからないがショックは少なくないはずだ。これ以上、負担を与えたくなかった……困らせたくなかった。
 やっと、会っても顔がひきつらなくなったし、ぎこちないけど声を掛け合えるまでに戻ったのだ。いつかは、あの件も「好きな人とだったからいいか」と思えるかもしれない。
 今はまだ時々苦しいし、大学祭の後に声をかけてきた数人に対しても(中には柊と同じサークルの学生もいた)応じる気にはなれないぐらい、気持ちは変わっていないけれど。

 七時になろうとする頃、携帯が鳴った。
 ガスの火を止めて手に取った途端、固まってしまう。柊からだった。迷ったが、留守電に変わる直前にボタンを押す。
 『もしもし、今どこにいる?』
 「家だけど」と答えるとなぜか絶句された。
 『……あのさ、今、マンションの前にいるんだけど。ちょっと出てきてくんないか』
 思わず窓の外を見た。しばらく前から雪が降っている。今朝の天気予報通りだ。
 待ってるから、とこちらの答えを待たずに電話は切れた。さっきよりももっと迷った。だが天気が気になったし、前にも待たせた後ろめたさで、コートと鍵を持って外へ出る。
 エントランスから柊の姿を認めた途端、驚きで足が速まった。さほど強い降り具合ではないのに、彼の頭もコートの肩も、何度か雪を払い落としたようにまだらになっている。
 「……いつからいたの」
 「たぶん六時ぐらい」と言われて、今度は奈央子が絶句する。つまり自分を待っていたということなのか。途中スーパーにちょっと寄っただけで、帰ったのは五時半頃だった。
 「なんでそんな──とにかく、コーヒーか何か入れるから中に」
 「いや、いいから。これ」
 と、柊は持っていたものを差し出す。小さな正方形の、ラッピングに印刷された文字を見て、さらに驚愕した。
 「……それ」
 「ギリギリ、今日に間に合う予約で買えた。あ、借金とかはしてねーからな。居酒屋のシフト増やしたり単発のバイトやったりして」
 「そうじゃなくて────どうして」
 「……わかんない?」
 奈央子は言葉をなくした。──だってまさかそんな。ありえない、と思いながらも心臓は期待で勝手に高鳴る。けれど、万が一思い過ごしだったらと考えると苦しくて──怖いぐらいに真剣な目を見ていられない。
 思わず目を伏せると、すかさず肩を揺すりあげるように上向かせられた。息をのむ。
 「好きだ」
 目を同じぐらいに真剣な声音に、息の止まる思いだった。
 「だから、あの時キスしたのもいいかげんな気持ちじゃない。好きだから、したかった」
 いつの間にか、目が離せなくなっていた。こんなに真剣な柊を見たのは初めてかも、と妙に冷静に考えた時、視界がゆがんだ。
 はっと目を伏せた時にはもう、涙が落ちていた。うろたえた声を出す柊を慌てて見上げて、首を振る。
 「ごめん、違う──嫌だからじゃないの」
 彩乃が妙に熱心だったのは、このことを承知していたからだろうか? この件に関する話の際、言いたいことがまだあるけど言えない、という表情をしていたことを思い出す。
 声の震えを懸命に抑え、返す言葉を紡ぐ。
 「すごく、嬉しい。……ありがとう」
 柊の不安そうな顔が、そこでようやくやわらいだ。ほっとした表情でもう一度差し出された小さな箱を、両手で大事に受け取る。
 「……ところで奈央子、もしかしてあの時が初めてだった?」
 遠慮がちな質問の意味にきょとんとしてから気づき、頬に一気に血が上る。真っ赤になっているのが自分でわかるほどに熱い。その頬に、柊の手がそっと添えられる。
 「やり直した方がいいよな、やっぱ」
 え、と思う間もなく、顔が近づいた。
 ──優しい、けれど長すぎるほどの触れ合いに、急激な目まいを覚えた。よろめいたところを支えられ、そのまま抱きしめられる。
 時間も寒さも、あるかもしれない人目も、その時は全部気にならなくなった。
 「──ごはん、まだでしょ。作ってたとこだから食べてけば。たいしたメニューじゃないけど、あ、ケーキはあるから」
 少し早口になるのは、照れくささをまぎらわせるためだ。柊は微笑んでうなずく。ところどころ固まってしまった雪を少しでも落とそうと、奈央子はコートの袖や裾を払う。
 その左手、薬指にはめたばかりのプラチナリングが、周囲の明かりを受けて光った。


                             - 終 -