「どうしたの。目、真っ赤じゃない」
 二時限目が始まる前、英語学概論の教室で会った彩乃に開口一番そう言われた。
 「……うん、あんまり眠れなかったから」
 「なんか体調悪そうだよ、無理しないで帰ったら? ノートなら取っとくからさ」
 「ありがと。でも、語学もあるし、三限までは頑張ってみる」
 「そう? 辛かったらすぐ言ってよ」
 なんなら後ろの方で寝ちゃってれば、とも彩乃は言ったが、奈央子は苦笑いとともに首を振った。ノートは頼るとしても、こんな所で居眠りはできない。……またたぶん、昨日のことを夢に見てしまう。
 昨夜はうとうとするたび、細かいところまで「あの時」がはっきりと思い出されて、何度も飛び起きた。朝までそんな調子だったから、全く熟睡できなかった。
 その上に熱っぽくて喉が痛いのは、本当に多少風邪を引きかけているのかもしれない。小降りになっていたとはいえ、傘を差さずに雨の中を二十分ほど走ったのだから。
 ──昨日、ドイツ語の講義の終了直後に、同じクラスの男子学生から声をかけられた。会話しているのを何度も見ていたから、柊と同じ学科の知り合いであるのは知っていた。
 届け物を引き受けたのは、男子学生がひどく困っていたからだ。演習で打ち合わせをするはずだったのに柊が来なかったからヤバいと、泣きつかんばかりに頼まれたから。
 家の住所と道順を教えて当人に行ってもらおうか、とも一瞬考えた。だが、語学はまだしも演習にも来なかったのは体調が悪いからかもしれない、と考えたら断れなくなった。有り体に言えば心配になってしまった。
 だからこそ、課題があった三時限目が終わってすぐ、柊の家に走ったのだが……半分寝とぼけた、けれど普通に元気そうな彼の顔を見た瞬間あぜんとして、次いで腹が立った。心配した反動でむかついて、言うことだけ言って帰ろうとした。そうしたら──
 涙が出ないように歯を食いしばり、震えないように両手を机の上で握りしめる。
 柊がどんなつもりであんなことをしたか、考えたくないし知りたくもない。──あまりにも苦しくて悲しくて、そして怖かったから。
 肩と手を押さえつける力と、のしかかる体の重みで動けなかった間、本当に怖かったのだ。思い出すたび、そして夢で繰り返されるたび、背筋が冷えて息ができなくなる。柊を怖いと思ったのは初めてで、それ自体ひどく悲しかった。……どう解釈してもありえないはずの、彼とのキスは言うまでもなく。
 講義終了のチャイムが鳴った時、なんとか眠らずに乗り切れたことに心底ほっとする。だが次のドイツ語を考えると途端に憂鬱が襲う。行きたくないが、重病でもないのにサボることへの抵抗感は強かった。そうでなくとも昨日、一コマ自主休講してしまっている。
 ともかくお昼は何か食べておこうと、彩乃と連れだって学食に向かう。食券を買うのは彩乃にまかせて、奈央子は二人分の席を探しに先に食堂へ入った。
 当然だが埋まっている席が多く、もしかしたら見つからないかもと思った矢先に、視線の先で学生数人が席を立った。彼らが離れるタイミングを見計らって近づき、カバンを椅子に置く。そして彩乃の姿を確認するため、再び周りを見回した。そうしようとした。
 「──────」
 目が合った相手ともども、その場に凍りつく。通路を挟んで斜め向かいのテーブルから立ち上がりかけていたのは、柊だった。
 ……逃げたいのに、動けない。
 彩乃が来るからと考える以前に、全身がそこに縫い止められてしまったように、足も手も顔も動かせなかった。背中を這いあがってくる寒気と震えを、我慢するのが精一杯だ。
 「お待たせ、ちょっと時間かかっ──」
 駆け寄ってきた彩乃が、異様な雰囲気に言葉を途切れさせる。
 「……奈央子、顔色悪いよ。外出よう」
 沈黙の後、肩を軽く揺さぶられ促された。彩乃に腕を引かれるままに歩き、学食の外、学生会館前の広場に出る。朝から晴れていたおかげで十月下旬にしては暖かい空気に、奈央子はやっと呼吸を取り戻す感覚を覚えた。
 空いていたベンチに座らされ、脇にカバンが置かれる。彩乃は短い間その場を離れ、缶コーヒー二本を手に戻ってきた。近くに並んでいる自動販売機で買ったのだろう。
 「あったかいのと冷たいの、どっちがいい」
 「……あったかい方」
 しばらく、二人とも無言でコーヒーを飲んだ。缶の中身が半分ほどになった頃、
 「羽村と、なんかあったの?」
 と尋ねられた。中学で二度同じクラスったから、彩乃も柊のことはよく知っている。自分たちの幼なじみぶりを一番近くで見ていた親友は、奈央子の気持ちの変化にもいち早く気づいて、気にかけてくれていた。
 そんな彩乃に対してでも、昨日の一件を話す勇気は容易には出せない。だが隠し続けていられないこともわかっていた。
 コーヒーの缶を両手で強く握り、深呼吸をする。……途中、何度も喉の詰まる思いはしたが、かろうじて最後まで泣かずに話せた。
 彩乃は目を伏せて、難しい顔をしている。話の間も、驚きの声を一度だけ発した以外は時々うなずくのみで、ずっと黙っていた。
 きっと何と言っていいのかわからないのだろう。その気持ちは、とてもよくわかる。
 「食券、無駄になっちゃったね。ごめん」
 「それは、別にいいけど……」
 かなりの間の後、彩乃はぽつりと言った。
 「何考えてたんだろうね、あいつ」
 「わかんない。……そんなのわかるわけないよ。知りたくないし」
 まるで論理的でない、子供のような言い方だと我ながら思ったが、彩乃は追及してこなかった。しかし「どうせろくな理由じゃないもの」と続けると、何か言いたげな目をしてこちらを見た。その表情は、どうしてか納得しかねているようにも見えた。

 彩乃に話して、ほんの少し肩の荷を下ろせた気分になれた。だるさもいくらか減った気がしたから、五時限目まで講義に出席した。
 買い物を終えた頃には七時半に近かった。結局、昼食は売店のサンドイッチで済ませたきりだから、結構お腹が空いてきている。明日は文法の講義で発表があるから、早めに食べて原稿をまとめなくてはいけない。
 配付資料をどうまとめるか、考えているうちにマンションが見える位置まで来ていた。だが目線をだいぶ落としていたから、入り口の脇に立っていた人間には気づかなかった。
 エントランスの照明に照らされる道に、自分以外の影が動いた。反射的に顔を上げた途端に足が止まり、顔と喉がひきつる。
 ──なぜ、柊がここにいるのだろう。
 三時限目の語学、英語は出席していたが、こちらが時間ギリギリで到着、かつ終了後すぐ教室を出たから、目もまともに合わせなかった。それで、ほっとしていたのに──
 動けずにいるうちに柊は、一メートルほどの距離まで近づいていた。手を差し出されて思わずびくっとするが、握られている物を見て、後ずさるのは踏みとどまる。
 「……傘」
 昨日、柊の家の前に放り出していった折り畳みの傘。とてもではないが取りに戻る勇気はなかったし、どうしようと思っていた。
 彼の性格からして、返しに来ること自体はおかしくはない。だが昨日の今日では、感謝よりも動揺の方が圧倒的に大きかった。
 それでもわざわざ持ってきてくれたのは確かだから、ひきつる喉を動かして声を出す。
 「──あり、がと」
 今の間隔では受け取れないので、努力して二歩ほど前に踏み出す。受け取る時に一瞬指が触れ、すかさず手を引っこめた。
 下がったと思った熱がまた上がる心地がする。早く立ち去ってほしいと願ったが、柊は動く様子を見せない。そのくせ、自分から動くこともできなかった。
 昼間と同じく、せめて涙が落ちないよう、傘を握りしめ歯を食いしばる。
 「………………その、昨日の、ことだけど。悪かった、ほんとに」
 どうかしてた、と苦しげな声が続く。
 やっぱり、と思った。理由はわからないが「どうかしてた」のでなければ、彼が自分にあんなことをするはずがない。
 納得すると同時に、抑えられない悲しさが奈央子の中に湧き上がる。あの時の恐怖よりも重く胸をふさぐのは、この感情だった。
 好きな相手に、普段は女子として見てもらえていないのに、どんな理由であれ相手の都合で女扱いされた──その事実がこんなにも悲しくて、辛い。
 「けど、おれ」
 「忘れて」
 だから、こう言うしかなかった。
 「わたしは忘れるから。だからあんたもそうして。……最初からなにもなかった、それでいいでしょ」
 「え、──ちょ、それは」
 何か言いかけた柊にかまわず、奈央子はマンションの入口に向かって走りだした。内容がなんであろうと、理由も弁解もこれ以上は聞きたくない。辛い気持ちが増すだけだ。
 ……だから、なかったことだと思うしかない。心の中でつぶやきながら入口に駆け込もうとした時、左手首を思い切りつかまれた。
 思わず喉から洩れた悲鳴に、柊がいくらか力をゆるめた。その隙を逃さず振りほどき、今度こそマンションに逃げ込む。
 家の鍵を開け、中に入り鍵を閉めて、ようやく息をつく。呼吸と気持ちが落ち着くまで座っていようと考えた時、携帯が鳴った。
 表示された名前を見て、コール三回分ためらった後、通話ボタンを押す。
 『あ、もしもし。久しぶりー元気?』
 快活な、よく知った声。公美だった。
 「うん、……元気」
 『大学はどう、順調? そりゃよかったわ。まあ奈央ちゃんなら大丈夫だと思ってるけどね、うちのバカと違って』
 バカが誰を指すのか、考えるまでもない。それを聞いた途端、胸の内側から目の奥に向かって、一気に感情がこみ上げた。
 「……くーちゃ……」
 あふれた涙で喉が詰まる。嗚咽をこらえたかすかな声が届いてしまったらしく、今度おいしい中華バイキングのお店に行こうね、と話していた公美が声音を一変させた。
 『どうしたの奈央ちゃん、何があったの!? ──まさか、あのバカがいじめたりしたの』
 表現はともかく的を得た直感である。だが打ち明けることは躊躇した。単純に言いにくかったし、公美が知ったら柊がどれだけ叩きのめされることになるか。そんなことを、今の状況で心配する自分は甘すぎると思いながらも、奈央子は嘘の理由を口にする。
 「違うよ。ちょっと、風邪引いちゃって。鼻と喉に来てるから声もおかしいの」
 「ほんとに?」
 「ほんとだよ」と言ったものの、声は明らかに涙声なので自分でも嘘っぽいとは思った。
公美もそう感じたのだろう、しばらく沈黙してから「なら、今日は早めに休んだ方がいいわよ」と言ってくれたが、納得しかねるような歯切れの悪さは隠せていない。
 数分後、電話を切った時にもまだ涙は止まっていなかった。今日一日さんざん我慢した分、泣いてしまうと収拾がつかなかった。
 ……ただの幼なじみ、姉弟みたいな関係だと、疑いなく思えていた頃に戻りたい。けれど昨日の件をなかったことと思いこんでも、彼への想いを忘れることは、たぶん一生できない。こんなに苦しくて悲しい気持ちになっても、今なお消えていないからだ。
 やっと治まってきてから鏡台の鏡をのぞくと、ひどい顔をしている。目の腫れを引かせないと恥ずかしくて外へ出られない。
 無意識に髪を整えながら考える中、唐突にあることを思いつき──そして、決意した。