九月半ば。夏休みは先週で終わり、今は大学全体が前期試験の最中である。
 試験四日目の昼、文学部棟を出て大学図書館へ向かう道の途中で、沢辺奈央子(さわべなおこ)は足を止めた。後ろから呼びかけた声の主、瀬尾彩乃(せおあやの)が追いつくのを待ち、再び歩き始める。英文科必修科目の試験はなかったため、同じ科の彩乃と今日顔を合わせたのは今が初めてだ。
 「この後試験あるの?」と彩乃が尋ねた。
 「ううん、今日はもう終わり」
 「じゃあさ、お昼食べた後で、図書館行かない? レポートまだ手つけてなくって」
 「あ、文学講読の?」
 「そう。もしかして、もう終わったとか?」
 「まさか。わたしもまだ全然だよ。資料は休み中に探したけどあんまり読めてないし」
 「探すだけでも偉いって。あたしなんか休みに入ったらレポートの存在自体忘れたもん」
 あはは、と明るく笑う彩乃につられ、奈央子も笑った。中学一年で同じクラスになって以来の六年半、親友と呼べる大事な友人の笑顔にはいつも気持ちを明るくさせられる。
 「まあ確かに、休み明けの試験とかレポートとかって、気合い入らないよね」
 「そうだよねぇ。休みが七月からなのはいいけどその後がめんどくさいよね……先に試験終わっちゃう学校の方が結局は楽かなぁ」
 「うーん、まあ、一長一短じゃない?」
 などと話しながら歩くうちに、各講義棟の区画と、学生会館などの区画の間にある車道の手前まで来た。車が通り過ぎるのを待っている学生数人を何気なく視界に入れた時、知った後ろ姿を見つけた。思わず立ち止まる。
 数歩先で彩乃が振り返って、怪訝な顔をした。「あ、ごめん」と謝って親友に追いつく──さっきまでより少し重く感じる足で。
 他の学生たちの、できるだけ端の方に立ち位置を取る。見えていないと思ったのに、何の加減でか向こうは気づいてこちらを見た。
 「あれ、奈央子じゃん。おーい」
 何の屈託もない声が飛んでくる。周りが皆その声に反応してこちらを見ているのに、聞こえなかったふりはできない。
 「──ああ、(しゅう)。いたの」
『いることに気づいていなかった』ふりだけは辛うじて残し、何でもないように応える。かすかなぎこちなさには全く気づかない無邪気さ、イコール鈍感さで笑う幼なじみの横には、この半年で後ろ姿まで見覚えた彼女。
 無表情の、だが目だけは少し険しくする彼女に、奈央子はどうにか微笑んで会釈した。彼女も返してきたが表情と目は変わらないままだ。直後、ようやく車の通行が途切れる。
 「あ、これからメシだったらさ、一緒に」
 「じゃね、また明日」
 聞き終えないうちに奈央子は彩乃の腕を引き、歩きだした。柊がぽかんとしたのも彩乃が戸惑っているのもわかったが、その全てに気づかないふりで道を渡りきり、学生食堂を目指す。当然、振り返ることもしなかった。
 それぞれに昼食を確保して食堂の一角に落ち着き、しばらくは後期に取る科目を何にするか話していた。その話題が一段落ついたところで彩乃がおもむろに、「ねぇ、奈央子」と、妙に抑えた声で呼びかけてきた。
 「ん?」
 「……あんまり言いたくないんだけどさ、その、やっぱすごい不自然だと思う」
 カレーライスを口に運ぶスプーンを、一瞬だけ止める。そのひと匙をよく噛み、飲み込むまでの間を空けてから、奈央子は答えた。
 「うん、わかってる」
 指摘されるまでもなく、自分が一番よくわかっている。それなのにうまく取り繕うことのできない自分が、時々本気で嫌になる。
 思わずついてしまったため息に、彩乃が気遣わしげな目を向けてきた。奈央子は苦笑を返し、顔の前で手を振る。
 「ごめん、気にしないで。大丈夫だから」
 「ほんとに?」
 うん、と自分にも言い聞かせるように強くうなずき、再びスプーンを動かし始めた。

 羽村(はむら)柊との付き合いは長い。生まれた病院が同じで誕生日は二日違い。当時から家が近所で顔見知りだった母親同士が、出産予定日が近いことをきっかけに親しくなったのだ。
 最初は、初産だった奈央子の母が出産経験のある柊の母親に助言を受ける形から始まったという。その交流は出産後も続き、一頃は家を頻繁に、必然的に子供連れで訪ね合っていた。だから奈央子も柊もおそらく、初めて会った同年代の相手はお互いだと言える。
 子供たちは物心つく頃には自然と一緒に遊ぶようになり、そのうち三歳上の柊の姉が、自発的に年下の二人の面倒を見るようにもなった。幼稚園前にはもう、三人で本当の姉弟みたいだと言われるほど近しい関係だった。
 自分たちも、ずっとそういう認識でいた。友達よりは近い、けれど近づきすぎることのない──男女の区別を意識しない関係だと。
 それなのにどうして今さら、その認識自体が違っていたと、気づいてしまうのか。

 最初のきっかけは二年前。期末試験が終わった後、夏休みに入る少し前だったと思う。
 高校だけが柊とは違う学校だった。彼は家から一番近い公立に行き、奈央子は私立の女子高。滑り止めとしてそこを受けた直後にインフルエンザにかかり、公立が受験できなかった。結果的に、制服に憧れてそこを目指していた彩乃と、同じ学校への進学になった。
 だから必然的に顔を見る機会は少なくなったが、小学生の頃からあった、お互いの家を月に二・三回訪ねる習慣は残っていた。母親同士の付き合いの延長で、惣菜や菓子などを届けるお使いをよくやらされていたのだ。
 その日は、柊の母親の実家から送られてきた物のおすそ分けということで、夕方に柊が訪ねてきた。両親は仕事で帰っておらず、家に一人でいた奈央子が受け取りに出た。
 いつもならさっさと帰る彼が、物を渡した後もなぜだか玄関から動こうとしなかったので、ごく自然に『どうかした?』と尋ねた。
 『あ、いや……その』
 何でもない、とはぐらかしたかったのかもしれない。だが良くも悪くも正直な柊はすぐ顔に出るし、隠すことも下手で苦手だ。思った通り、あまり間を置かずまた口を開いた。
 『……ちょっと、相談していっか』
 『なに、あらたまって』
 あのさ、と一呼吸おいてから、柊はやけに困ったような口調で打ち明けた。
 『女子に好きだって言われたんだけど、どうしたらいいと思う?』
 その時奈央子は、まず耳を疑った。柊からそういう話が出たことは一度もなくて、すぐには実感がともなわなかったから。
 けれど中学時代、ひそかに女子の間で評判がよかったことは知っていた。昔から、ちょっと子供っぽいところはあるが誰に対しても裏表がなくて気のいい奴だから、彼を悪く言う人は男女を問わずいなかっただろう。
 反面、人気のわりには誰かが告白したという噂も耳に入らず、だから恋愛対象まではいかない奴なのか、と漠然と思っていたのだ。
 『……ふうん。誰に?』
 聞き返した声のこわばり具合に、自分で驚いた。だが柊は気づかなかったのか、視線を少し落としたまま『同じクラスの、望月っていう』と、ぼそぼそと答えた。
 『あっそう。可愛い子? 好きなの?』
 『わかんないから聞いてんだよ。そういうこと言われたことないから、わかんなくて』
 口をとがらせて言い返す柊は、確かに困っているらしかった。だが困惑の中に別の感情が混じっていることにも奈央子は気づいた。
 『でも、そう言うからには嫌いじゃないわけでしょ。てことは結構いい子なんだ?』
 『──まあ確かに、可愛いことは可愛いし、いい子だとも思ってるけど』
 『じゃあ前向きに考えてみれば。あんたみたいな奴を好きになってくれたなんて、貴重な子じゃない』
 どういう意味だよ、とぼやきながら帰っていった翌日、柊から報告された。告白してくれた女子、望月里佳(もちづきりか)と付き合うことにした、と。

 大学図書館での資料探しの後。奈央子は彩乃と別れて通学路線の中継駅で下り、隣接するショッピングビルに寄り道をした。この駅の周辺は、大きなビルや商業施設等が建ち並ぶ市の中心地となっている。
 書店で本を購入した後、何とはなしにビル内をぶらぶらしていた。五時前だったし、明日の試験は午後からという余裕もあった。
 一階の、ブランドショップが並ぶあたりを通りかかった時、フロアの中央にあるエスカレーターを下ってきた人物に目が留まる。
 すぐに、柊だとわかった。柊もこちらに気づき、手を振って近づいてくる。……里佳の姿は見当たらない。
 昼間のことが頭に浮かび、回れ右をしたい心境になったが、そうして遠ざかるにはタイミングを逸していた。だが柊の屈託のない笑みに、気にしなくていいかと思い直した。
 たぶん、忘れたのかわかっていないのか、どちらかだろう。彼なら充分あり得る。
 「なに、一人?」
 「ん、そう。ここのシネコンで映画観て茶店寄って、駅に望月を送ってきたとこ」
 「ああ、デートだったんだ。試験中なのに余裕あるじゃない」
 と言ってやると、柊は照れくさそうに笑った。その、はにかむような表情を最初に見たのは、二年前の交際報告の時。
 「そういうわけじゃねーけど。おまえは?」
 「わたしは本屋に用事。今日発売の新刊があったから。これからバイト行くの?」
 「そ、五時半から」
 柊のバイト先はビル地下の居酒屋で、知る限りでは、ほぼ毎日シフトを入れているようだ。ちなみに奈央子は入学直後から、大学生協の売場でレジ担当として働いている。
 「どうでもいいけど、いつも楽しそうね」
 「まあ、客商売ってわりと性に合ってるみたいだし──あ、っと思い出した。この店なんだけど」
 言いながら、柊はすぐ横のジュエリーショップを指し示す仕草をする。
 「ここがどうかした?」
 「女子の間で流行ってるとかいうだろ?」
 確かにそうだ。今年春に放送されたドラマで、人気の若手俳優が演じた主人公が恋人に贈る指輪として、この店の商品が使われた。それ以降、三ヶ月近く過ぎた今でも人気を集めていると、聞いたことがある。
 「おれはそのドラマ観てないからわかんないんだけど、評判になった指輪ってどれ?」
 「えーと。あ、これ。札が貼ってあるやつ」
 ウインドウを除いて指差したのは、どちらかと言えばシンプルなプラチナリング。十数万円の値札と並べて「予約受付中」の小さな札が置かれていた。やはり人気商品らしい。
 「なに、望月さんにリクエストされたの?」
 「いや、そうは言われてないけど。さっき茶店でその話が出たから」
 「話に出したのって望月さんからでしょ。てことはやっぱり、ちょっとは欲しいと思ってるからじゃないの」
 「ふーん。やっぱそうかな」と首を傾げる柊に、奈央子は複雑な感情を覚えた。こんな、根本的に女心に鈍感なところはいつまでも変わりない。……嘆くべきなのかどうなのか。
 「おまえは?」
 「えっ?」
 「だからさ、おまえもこういうの欲しいって思うわけ?」
 唐突に真顔で尋ねられ、どきりとする。
 「わたし? え、と、そうねえ……」
 もちろん、柊は全く他意なく聞いているのだ。わかっているのに、声が勝手にうわずってくる。考えるふりで口に手を当て、気づかれないように深呼吸した。
 「まあ、無理してまで買ってもらおうとは思わないけど、もらえたらやっぱ嬉しいかな」
 「ふうん?」
 そういうもんかな、と柊はまた呟く。そういうもんなのよと返したかったが、心の中だけにとどめた。やれやれ、と呆れ半分安心半分で思っているところに、
 「おまえ、最近おれのこと避けてない?」
 再び唐突に持ち出された問いに、今度は息の止まる思いがした。
 「──別に。何で避けなきゃいけないのよ」
 「それはこっちが聞きたいんだけど。なんか時々おかしいじゃん。今日だって昼間、声かけてんのにさっさとどっか行っちまうし」
 「レポートの調べものがあったから急いでたの。それにだらだら話してちゃ悪いでしょ、望月さんに」
 「は? なんでおまえがそんな遠慮すんの」
 本当に不可解そうな柊の表情に、奈央子は苛立ちを感じた。この様子ではいまだに気づいていないのだろうか──自分と里佳との間にある、微妙な空気に。それも大いにあり得るなと思うと、ますますイラっとしてくる。
 「遠慮して当たり前でしょうが。それより、バイトの時間大丈夫なの」
 「え、あっやべ、十五分前だ。じゃあな」
 「はいはい、がんばってね」
 地下へと走り去っていく柊の背中に、奈央子は手を振った。その姿が見えなくなってから、詰めていた息をようやく吐き出す。
 とっくに慣れきっているはずなのに、いまだに時折、柊の言動に振り回される。とんでもなく鈍感かと思えば、今のように、気づかなくていいことを覚えていたりもするから。
 ……それに、さっきのような距離で真顔で見つめられると、近頃は落ち着かない。柊の側に全く深い意味はないと承知していても、心臓を鷲づかみにされた心地がするのだ。
 やや童顔ながら、柊の顔立ちは平均より整った部類だと言える。それも女の子受けしていた一因だろうし、奈央子自身、真剣な表情は悪くないと思ったこともあった。
 その認識でこんなに苦しくなる時が来るなんて、当時は考えもしなかったけど。