音楽なんかで世界は救えない


───未読メッセージが一件あります。───
『明日18時、○○駅前の公園でお会いできませんか』

 透からDMが送られてきたのは、Midnight blueのバイトの真っ最中だった。律はそのメッセージを何度も読み直し、ひと呼吸置いたのち、もう一度スマホを凝視した。どうやら、見間違いではない。それでもまだ信じられなくて、ちょうどトイレから出てきた叔父の和久に頬をつねるよう頼むと、気味悪がりながら思いっきりつねられた。普通に痛かった。
 夢じゃない。律は大声を張り上げたい気持ちをぐっと腹の奥にため込んで、口を覆った手のひらの中でだけ「よっしゃあ!」と小さく歓喜の声を上げる。これほど明日を焦がれたことが、今だかつてあっただろうか。緩み切った自分の両頬を叩く。よし、と一言声を上げて、スマホに文字を打ち込む。
 返事の内容はもう、決まっている。

* 

 指定された駅は、学生や仕事帰りのサラリーマンやOLが乗り換えでごった返すターミナル駅だった。律は人ごみに押されながら、改札を通り駅を出る。目的地である公園に向かって歩き出した。心臓の音が反芻して耳に挿したイヤホンの音楽が全く入ってこない。緊張をほぐす為に軽く息を吐く。足元には連日の雨で落ちた桜の花の絨毯で一面埋め尽くされていた。すれ違う人々はみな、春風で振り落とされる花びらを見上げながら、惚けたように歩いている。
 ただひとりだけ。律の視線の先に、律と同じように足元を見たまま俯く人影を除いて。彼女だ、と律は直感した。ここら辺では見かけない、お嬢様学校と名高いセーラー服に身を包んだ小さな背中が不安そうに縮こまっている。肩上まで伸びた黒髪の隙間から、桜色の唇が固く結ばれているのが見えて、律の胸はさらに張り裂けそうになった。春のかすかに甘い空気を胸いっぱいに吸い込んで、その背に律は声をかける。

「──透、さん、ですか」

 細い肩がぴくりと揺れて、伏せられていた顔が緩慢な動作で律を見上げる。空の青さを数多にも重ね合わせたような深い色の瞳がこちらを見ていた。ああ、このひとだ、と律は直感した。彼女の瞳を通して映し出された世界から、あの透明な青が産み落とされたのだ。

「あなたが」

 彼女は胸の中で抱えたスケッチブックを強く両手で抱き締めて、意を決したように言う。

「あなたが、イツカさん……ですか?」
「うん、はじめまして。俺は、律。雨宮律。きみは?」
「わたしは、透花といいます。笹原透花です」

 とうか。律は口の中で転がすように復唱すると、すんと馴染む。彼女の名前にぴったりだと思った。

「あの、」

「えっと、」

 ふたりの声が重なる。お互いぱちくりと目を合わせて、先に笑ったのは透花の方だった。照れくさそうにはにかみながら言う。

「ご、ごめんなさい。すごく緊張してたから、今のでが肩の力が抜けてしまって」
「ああ、うん。それは俺も。昨日、全然寝られなかったし」
「偶然ですね。わたしも全然寝られませんでした」
「俺だけじゃなかったんだ。ちょっと嬉しい」

 透花は少しだけ目を見開いて、「ちょ、直球だ……」とさらに頬を赤く染めて眉を下げた。

「えっと、あの、ですね」
「うん」
「まずは、これを返したくて」

 律の前に何かを握りしめた手が差し出される。受け取って確認すると、それは、USBだった。

「ごめんなさい、」

 その一言が重く、律に圧し掛かる。届かなかったのか、とただそれだけしか考えられなかった。

「……って、言うつもりでした」
「へ?」

 思わず表を上げると、透花は苦笑いをしながら続ける。

「わたしは絵しか描けません」
「……」
「絵しか描けないけれど、それもすごく中途半端で、すぐスランプになるし、誰かに自分の絵を評価されることが怖くて仕方なくて、満足のいくものなんて何一つ描けなくて、自信もなくて、全部嫌になってもう描きたくないって投げ出すような弱い人間で、あなたが期待しているほどの才能も実力もないと思います」
「それは、」

 律は、違う、と続けようとして、言葉を遮られた。

「違うくないですよ。わたしよりずっと、ずっーと、あなたの音楽に見合うだけの世界を絵描くひとは他にたくさんいる。けど、もう、どうしようもないじゃないですか。あんなの、聴かされて」

 透花の深い青の瞳が海の煌めきのように、あるいは雨上がりに差し込む太陽の光のように輝いている。

「あんなの聴かされて、描きたくならないやつなんか、いませんよ」
「は、」

 ──なんていう、殺し文句だそれは。

 身体中の血液が沸騰するみたいに、律の顔が急速に熱くなっていく。顔を隠した片手の隙間から、透花が落ち着きなく視線が右往左往しているのが分かった。

「あの、雨宮さん? ど、どうかしましたか?」
「……いや」
「はい」
「……なんか、告白みたいだなって」
「なっ、」 

 言葉を詰まらせた透花は、ぽ、ぽ、ぽ、と効果音をつけたくなるほど顔を真っ赤に染めた。
 
 そして、動揺のあまり、力が抜けて今まで両腕で抱えていたスケッチブックを地面に落としてしまう。そのタイミングを見計らったように、花嵐が吹き荒れる。風に攫われてスケッチブックから幾枚もの紙が一斉に舞い上がった。

 ───それは、透花が描いた世界のすべてだった。

 はらり、と律の足元に落ちた一枚の紙を拾い上げる。鼓動が激しく波打っている。恥ずかしさと、嬉しさと、言いようのない期待感。

「やっぱり、きみがいいよ」

 本能が叫んでいた。彼女しかいない、と。
 どうか手を取ってくれ、と強く願いながら律は透花に拾い上げた一枚の紙を差し出す。

「きみに、俺の曲を描いてほしい」

 透花は春の陽光より淡く笑いながら、震える手でその紙を受け取った。
 それが降参の合図だった。



「先生、すいません」

 律の呼びかけに、白いシャツの男が振り返った。薄ぶち眼鏡に律の顔が反射している。

「雨宮か、どうした?」
「遅くなりましたけど、これ、提出しようと思って」

 鞄の奥底にしまい込んだまま、皺くちゃなA4用紙を律は担任に差し出した。その紙を受け取った担任はそこに綴られた文字を追って、顎を擦りながら頷く。

「あーはいはい、進路希望な。雨宮はー、大学進学希望、で大丈夫だな」
「はい」
「3年からは受験で忙しくなるからな。2年のうちに青春を謳歌しておけよ~?」

 軽く律の肩を叩いて、担任は去っていった。

「……青春、ね」

 しばらくその背中が遠ざかるのを眺めていると、ポケットの中でスマホが震えた。手に取って確認してみると、連絡先は『透花』と表示されている。

 律は逸る気持ちを抑えて、その電話に出る。電話口の向こうから上ずった興奮冷めやらぬ透花の声が聞こえてきて、思わず口元が緩む。なぜなら、律も同じように舞い上がっていたから。

 猶予は、残り1年。
『音楽なんかで世界が救えない』ことを証明するために、律は音楽をする。