背伸びして頼んだブラックコーヒーは、全く飲めたものではなくて、一口飲んだだけで放置したままだった。
2階の窓側の席からは、スクランブル交差点を行きかう人たちがよく見える。
しばらく、ぼうっとその様子を眺めていると、ふと、テーブルの上に置いてたスマホが震える。確認すると『クソ律』の文字が表示されていた。纏は画面をタップして、耳に当てる。
一言目に言う台詞はもう、決めていた。
「締め切り遅れの謝罪なら受け付けねーぞ」
『ちッげーよ!』
間髪入れずに突っ込んできた相も変わらず憎たらしい恋敵の声音は、最後にあった日よりも幾らかマシになっていた。
「で、何の用?」
『あの日の回答、しようと思って』
「ああ」
電話口から、覚悟を決めたような息遣いが聞こえる。
『3月5日で『ITSUKA』を解散したい』
「分かった」
纏は二つ返事で了承した。
『…………エッ? それだけ?』
肩透かしでも食らったのか、律は声を裏返してそう言う。
「それ以外になんか言うことある?」
『いや、そうだけど、そうなんだけど! もっとぉ、こう! あるだろ!?』
「もし解散しないってなったら、それはそれで困るんだよね」
『は? なんでだよ?』
「今さっきメジャーデビューの話、蹴ってきたところだから」
『は……、はぁああああああああああ!?』
「うるさっ」
音が割れるほどの大声に纏は思わず顔を顰めて、耳からスマホを離す。
『おま、俺らに決めろとか言ってたやん!』
「だって別に、メジャーデビューしたところであんまメリットないし。無意味に行動制限されるし、つまんないしがらみばっかり課されたら、『ITSUKA』の良さが無くなるでしょ」
『まあ、確かに』
「それに、お前らにはさ、最後までらしくあってほしいと思ってんの。だから、責任もって僕が最後まで、創りたいもの創らしてやるよ」
『……じゃあ、纏を敏腕プロデューサーとして見込んで頼むんだけどさ。父親に俺の曲を聴かせて、説得したいんだ。何かいい案ある?』
「音楽を嫌悪してる人間に?」
『そう』
はあ、とひとつ大袈裟にため息をついて、纏は考える。そんな簡単に思いつくわけもない。
「案ねー……」
ただ、何気なく視線を巡らせる。そうして、纏の視線はとある一点に集中する。午後三時をお知らせします、と仰々しく頭を下げるアナウンサーの声がした。
*
約1か月ほどお世話になった部屋を、透花はぐるりと見渡す。なんやかんや長い間滞在したから、初めてツルミ荘を訪れたときよりも鞄が二つ増えた。
「荷物まとめたか~?」
ひょいと、開いたドアの隙間から顔を覗かせた白髪が揺れる。
「今終わったところ」
初めはぎこちなかった兄、夕爾との会話にも今ではすっかり慣れて、透花は変に物怖じしなくなった。
「じゃあ、ちょっと時間、いいか?」
「え? うん、いいけど。どうしたの?」
「これ、渡そうと思って」
振り返った透花の前に差し出されたのは、数冊の古びたスケッチブックだった。随分と使い古されていて、オレンジと黒の表紙には細かい擦り傷がたくさんついている。透花はそれを両手で受け取って、1ページ捲る。細かいパーツごとのデッサンやメモ、構図に合わせたポーズを何枚にも渡って描き綴られていた。
「お前、昔から手描くの、苦手だろ。MVもちょっと誤魔化してた」
「うっ、分かる?」
「バレバレ」
夕爾の言う通り、透花は背景の次くらいに手を描くのが苦手だ。
「これ、俺が今まで描き溜めてたデッサンとか構図の資料。役に立つと思う、多分」
「……くれるの?」
「バーカ」
「あうっ」
両手が塞がっているのをいいことに、夕爾が軽く透花の頭にチョップを食らわせる。
「貸すだけだ」
「ええ」
けち、と口を尖らせようとした透花を遮るように、夕爾はにっと少年のように笑った。
「俺が必要になったら、ちゃんと返してもらうぜ。それまでは貸してやる。分かったか?」
透花は、胸の前に持ったそれをぎゅうっと大事に抱きしめる。声が震えてしまいそうになるのをぐっと堪え、透花は何度も頷く。
「……うんっ、うん! ちゃんと、返す」
「よろしくな。……じゃあ、そんだけだから」
「あ、お兄ちゃん!」
透花の肩を優しく叩いて、部屋を出ようとした夕爾を慌てて引き留める。
「わたしの友達から、伝言頼まれてたの」
「……俺宛に?」
思い当たる節もないのか、夕爾は首を傾げる。透花は、底抜けに明るくて笑顔のよく似合う彼女の口調を真似しながら言う。
「メメ先生の漫画を読んで、救われたから、ありがとう! って」
夕爾の瞳の奥が、流れ星が夜空に消える瞬間みたいに、眩い煌めきが弾けた。我に返った夕爾が、すぐさま踵を返す。そして、部屋を後にする直前、呟いた。
「続き楽しみにしといて、って伝えといて」
平静さを装うようにした言葉は、しかし、その端が震えていた。
*
『明日の夜21時、駅前のスクランブル交差点のところで待ってる』
家出してから一切連絡の取れなかった息子から送られてきたメッセージが、それだった。
仕事を早めに切り上げて晴彦は、指定された場所へ向かう。金曜日の夜は、随分と活気に溢れていた。仕事上がりのサラリーマンやOLが、スクランブル交差点を渡って繁華街に流れていく。
「あ、すいません」
肩がぶつかって、咄嗟に謝ってきたのはまだ年端も行かない高校生だった。そこで、ようやく晴彦は気づく。この遅い時間帯にしては随分と若い子が、交差点に集まっている。そしてみな、一応にスマホを掲げて、何かを待ちわびるように上を見上げている。
21時、約束の時間の10秒前。
集まった人間たちが一斉にカウントダウンを始める。
さん! にー! いち! ぜろ!
───その瞬間、晴彦は弾かれた様に顔を上げた。ビルに設置された巨大モニターから流れてきた、カセットテープを再生する音。擦り切れて、絞り出したようなか細い声は、よく耳を澄まさなければ、何度も耳にした晴彦でさえ初めは気が付かなかった。
(奏の、声だ)
割れんばかりの喝采が、鳴り響く。足早に道行く人々すら、足を止めてその音楽に聴き入る。
その曲は、返歌だった。奏へ向けた愛の歌だ。怒りと、憎しみと、失望と、それすら飲み込むほどの愛と罪悪感と覚悟が込められている。いいから黙って曲を聴け、と見知らぬ少女に殴られた右頬が疼く。年甲斐もなく、胸がかっと熱くなって、大きく開いた穴が満たされていく錯覚にすら陥った。
瞼を閉じた先に、今は亡き妻の顔が思い浮かぶ。忘れもしない、彼女が亡くなる直前の、舞台裏の姿だ。
目を奪われるような真っ赤なドレスに病的なほど白い肌が、月光に照らされてぼんやりと光り輝く。
華奢な細腕に抱かれてすやすやと寝息を立てているのは、息子の律だ。彼女は優しく、優しく子守唄を歌いながら身体を揺らしている。
『奏、』
晴彦は堪らなくなって、彼女の名を呼ぶ。
長く縁どられた睫毛がぴくりと震えるが、こちらを振り返ることはない。
『最後の頼みだ。音楽は諦めて、俺と律と、生きてくれ』
治療をしたところで、彼女の病気が治る確率は限りなく低かった。それでも、晴彦は神頼みでしかないような希望に賭けたかった。
散々話し合っても平行線だったその話を振るのは、これで最後にすると、晴彦は強い覚悟で彼女に訴えかけた。
『1年でもいい! 半年でも、3か月でも、2週間でも───少しでも永く、奏と生きていたいんだ。だから、頼む』
藁にも縋るような思いで、晴彦は深々と頭を下げた。
『人が人を忘れる順番の一番最初は、声なんだって』
カナリヤが鳴くように、美しい嫋やかな声音で奏はそう言った。
『私は、この先1年の命よりも、今この瞬間のために歌いたい』
『それは、俺たちを捨てでもか?』
ただ何も言わずに奏は結んだままの唇に微かな笑みを浮かべた。手を伸ばしてもすり抜けてしまいそうなほど白い肌に透明な青が、零れ落ちる。
『どうか、恨んでください。この薄情な女のことを』
恨めるわけなど、ない。
そんなことを口に出さずとも知っていながら、なお言葉を重ねる彼女はどうしようもなく身勝手で、最低な女だ。
『貴方だけは、私の歌声を覚えていて欲しいの。だから、私は歌うわ』
そんな女のことを今でもなお、愛している自分は馬鹿を通り越して愚か者だと、晴彦は唇を噛み締めた。
心地の良い余韻を残して、ついに曲が終わる。
その瞬間、真っ暗な画面に映し出された曲名は───『ミッドナイトブルー』。奏が一番好きだった曲と同じタイトルだ。
「父さん」
父さん、だなんて呼ぶ人間はこの世にひとりしかいない。晴彦は、その呼び声のする方へゆっくりと振り返る。
人混みの中で、唯一目があったその人は、律だった。
情けない顔をしているだろう自分とは対照的に、律の瞳に一切の揺るぎはない。奇しくもその瞳と同じ色した人間を晴彦は知っている。いつの間に、こんな目が出来るようになったのだろう、と晴彦はようやく気付く。子供が成長するのは、瞬きするよりも早いのだと。
「どうよ? 感想は」
「……ああ、そうだな」
一つ呼吸を置いて、晴彦はぎこちなく笑った。
「最高だったよ、悔しいくらい」
それが、降参の合図だった。
ITSUKA@ituka_official
いつもITSUKAを応援していただきありがとうございます。
ITSUKAは3月5日をもって、解散します。
これまでお付き合いいただき、大変ありがとうございました。
3月5日に、配信サイトにて解散ライブを実施します。