「よく漫画とかアニメとかでさ、話の途中で敵方に寝返る裏切りキャラって、いるじゃん? ああいうのって、何かしらのそうせざる負えない理由があって、それを心の中に秘めたまま主人公と敵対するのがセオリーで、大体死んじゃった後とか死ぬ間際にそのキャラの心情が分かる、とか。あとは、映画とかで、余命幾ばくかの彼女が最後に振り絞った力で残した手紙を読んで、彼女の思いを胸にそれでも明日も生きていく、みたいなラストとか。……そういう展開を、期待してた」

 ガタン、ゴトン、とレールのつなぎ目を通過する音がする。

「音楽は世界を救える───、それが、母さんの口癖だった。だから、俺は、証明したかったんだ。音楽なんかで世界が救えるわけがない、って。それを証明した後で、俺は母さんの墓の前でさ、言ってやりたかった。『ほら見ろ、音楽なんかで救えるわけがないじゃないか。所詮そんなものために、命を懸けた母さんは大馬鹿者だ! 俺たちを捨ててまで選んだ事を地獄で一生後悔すればいい』、って。……本当はさ、音楽とか、世界とか、どうでも良かった。単なる理由付けに過ぎなかった。俺はただ、母さんが間違ってたんだって、自分に言い聞かせるための理由が欲しかったんだ」

 教科書を音読するように、淡々とした声音で語り続ける。

「あの頃の記憶は、あんまり無いんだけど……母さんは、たぶん、病気のせいで上手く歌えなくなってた。一刻も早く治療しなきゃいけないって状況で、母さんは頑なにそうしなかった。治療したら、もう声が出なくなっちゃうとか、今まで通り歌えなくなっちゃうとか、けど治療したところで手遅れだとか、まあきっと、そういう理由だろうね。……父さんと母さんが、そのことで何度も喧嘩してたの、何となく覚えてるから」

 膝の上に置いた白い梅の花束に触れると、包装紙がくしゃりと音を鳴らす。

「3月5日が母さんにとって、最後のステージになった」

 次第に電車が減速していく。終着駅はもう、すぐそこだった。

 *

 電車を降りたのは、透花と律のふたりだけだった。
 寂れた無人駅から、夕暮れの火に染まった海がよく見えた。次第に、水平線に呑まれていく太陽に向かって水面上に一本の光の道が続いていた。
 ふたりは、堤防沿いを、止まりそうなほど遅い足取りで歩く。

「父さんは、許せなかったんだ。俺たち家族と音楽を天秤にかけて、音楽を選んだ母さんのことも。母さんをそうさせた音楽のことも」

 初めて律が父の涙を見たのは、母の葬儀の時だった。幼い律の両肩に手を置いて、父は言った。

「『いいな、律。もう二度と、音楽はやるな。絶対に』───なんてさ、言いたくなっちゃうよね、そりゃ。だから、俺が父さんに隠れて音楽してること、心んどこかでずーっと罪悪感あった。そのせいで、父さんに殴られても何一つ反抗できなかった。母さんに捨てられた父さんの気持ち、俺にだって痛いくらい分かるから」

 触れた右頬が、ちりっと痛む。

「音楽を始めたての頃は、母さんの気持ちが知りたくて仕方がなかった。もし死者の言葉が聴ける機械でもあったなら、俺は迷わずこう言う。なんで、俺たちを選んでくれなかったの、って」

 いつの間にか潰れてしまったのかシャッターの降りたタバコ屋の角を曲がれば、もうすぐ、目的地に到着する。じゃりじゃり、と玉石を踏み鳴らしながら歩く。

「でもさ、もう……答えは、分かった。あの日、あの時、ステージに立った瞬間に」

 それは、あまりに単純な答えだった。

「歌いたかったからだ。命懸けてでも」

 律は、向き直る。墓石を前にして、あの住み慣れない家のリビングで、いつも通り母の遺影に話しかけるみたいに、律は言う。

「……久しぶり。母さん」

 16歳の誕生日に亡き母から手紙が届くとか、偶然出会った母の知人から母の本当の気持ちを知るとか、そういう都合の良い優しい展開を、期待していた。最後の人生で息子に自分の音楽を残してやりたくてとか、心の奥底では音楽を選んだことに罪悪感をもっていたとか、そういう綺麗な理由が欲しかった。家族を捨てるだけの立派な理由があったと、想いたかった。

『───夕爾さんは、『創作』のためなら、死ねますか』
 夕爾に問いかけた最後の質問を、律は思い出す。
 つまりは、そういうことだ。母は、『創作』のためなら、死ねる人間だった。夕爾の言うところの、あちら側の人間だった。
 綺麗な理由なんて、立派な理由なんて、あるわけがない。
 単純なことだ、母は家族よりも音楽を優先した、身勝手な人間だった。ただそれだけ。それを知った時、律は失意の底へ落ちた。そして、同時に身勝手な母を惨たらしく責め立てることは、出来ないと悟った。何故なら、それは。

「きっと、俺も同じことをする」

 肌を刺すような風が吹いて、供えられた梅の花びらが揺れた。

「俺が母さんの立場だったら、家族とか、未来とか、全部かなぐり捨てて、ステージに立つ。……俺も、『創作』のためなら死ねる人間だった。母さんを責めることなんてできない、大馬鹿者だよ。親子そろってこんな馬鹿ばかりなんだから、父さんに合わせる顔がないよね」

 両手を合わせ、顔を上げた律は、振り返った。

「ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いい?」

 透花は少しだけ悲しそうに、うん、と頷いた。

 *

「ここは?」
「俺の前の家」

 昔住んでいた家は、控えめに言って酷い有様だった。
 季節の花が彩っていた庭は、煤ぼけた草木が律たちの腰の高さまで生え、外壁には毛細血管のようにツタが張り巡らされている。キーケースにつけられた、メッキの禿げた古めかしい鍵をドアに挿すと、ごり、っと音を立てて開く。
 電気も通っていないから、薄暗いうえ、廊下を歩くたび埃が舞って息苦しくなる。

「あ、あったあった」

 一番奥の部屋にそれは、まだ残っていた。もぬけの殻となった部屋の中で、異様な存在感を放っていた。埃がかった白いシーツを取り払うと、律と透花は二人そろってせき込む。
 シーツの下に隠れていたのは、グランドピアノだった。試しに人差し指で適当な鍵盤を弾いてみると、籠った音が鳴る。

「あはは、ひっでえ音」
「そうなの?」
「うん、調律とか一切してないからね。透花、こっち座って」

 トムソン椅子の片側半分に腰を下ろした律は、余ったもう片方を手で叩いた。透花がおっかなびっくりといった感じで座る。

「透花、『きらきら星』弾ける?」
「弾いたことない」
「いいよ、教えてあげる。はいまずここに指置いて。ド、ド、ソ、ソ、」
「ド……ド、ソ、ソ」
「いいじゃん、上手い上手い」
「へへ。続きは?」

 ものの数分ほどで、透花は『きらきら星』を弾けるようになった。楽しそうに歌いながら、拙い指先で鍵盤に触れるさまは、どこか幼いころの律の姿を思わせた。最後の一音が部屋に鳴り響いて、すぐに静寂に包まれた。
 透花が顔を上げる。律は、透花から目を逸らさずに口を開いた。

「『ITSUKA』は、3月5日で解散するよ」

 深い青い瞳が大きく見開かれる。石を投じた水面のように透明な膜がゆらゆらと、揺れる。

「そ、だね……うん、……そう、だよね」
「自分勝手で、ごめん」
「ううん、何となく、分かってたから」
「これ」

 律はポケットから取り出したくしゃくしゃの紙を透花に差し出す。透花は、覚束ない指先でそれを受け取る。もとは上等そうな一枚の名刺だったのだろう、透花の知らない名前が明朝体で書かれている。

「母さんが昔音大でお世話になってた恩師だって、叔父さんがくれたんだ。今は、海外の大学で先生やってるんだって」

 律は、静かに続ける。

「たまたま叔父さんの店に来たんだってさ。俺が作曲してるってことを叔父さんから聞いて、動画見てくれた。それで……その人が、こっちに来て音楽を一から学んでみないかって、誘われてる」

 伏せられていた透花の顔が、すっと上がる。泣きたいのを我慢する子供みたいに、唇をぎゅうっと結んで、堪えているのが分かった。

「俺は、行くよ」

 透花は何も言わず、ただ律の胸にとん、と額を寄せた。必死に声が震えないようにと喉の奥を締め付けるような声がする。

「答え、見つけたんだ」
「うん」
「そっかぁ。よかった、よかったけど……やっぱり、さみしいな」
「うん、俺も。……別れのキスでも、しとく?」
「……ふふ、ばか」
「ええ、だめ?」
「また、わたしと『創作』するって、約束してくれるなら、いいよ」
「……する。神に誓って」
「破ったら、纏くんにチクってやる」
「それは怖いな。死んでも守らないと」

 互いに見合わせて、少し笑った。そして、どちらともなく近づいた唇が、静かに重なり合わさる。
 初めてしたキスは、少しだけ苦くて、しょっぱかった。
 多分、青春が食べられるならこんな味がするんだろうと、律は思った。