音楽なんかで世界は救えない


 音楽が嫌いだった。

 感傷に浸らせるような音楽も、前向きにさせる音楽も、傷ついた心に寄り添う音楽も、明日の未来を綴る音楽も、夢を描く音楽も。
 ラブソングなんて聴いただけで吐き気がした。

 この世界が、音楽のない世界だったら良かった、と思っていた。

 かつて、雨宮律は音楽を憎んでいた。

 今はもう、自分がどう思っているのかすら分からない。何故なら、律が追い求めていた答えはもう随分前に分かってしまったから。 

 割れんばかりの喝采と、肌に纏わりつく熱気。人々の歓喜に満ちた視線の中、律は得体の知れない充足感に愕然とした。
 
 熱さに反比例して、全身が粟立った。
 そして同時に、律は理解してしまったのだ。

 言い逃れのしようがないほど、思い知らされたといってもいい。その事実を直視すぎるには痛すぎて、受け止め切るにはあまりに脆すぎた。

(ああ、そっか)

 律は、固く目を閉じて、その現実から遮断した。

(だから、母さんは───)


「……みや、おい、雨宮!」

 はっと、律は我に返った。
 顔を上げると、頭に白髪の見えるジャージ姿の教員が教壇の前で腕組していた。
 その後ろの黒板には進路ガイダンスの文字がでかでかと書かれている。いつの間にか、律の目の前には『進路希望調査』と太字で書かれたA4用紙があった。

 ここは学校で、今は冬休み明けの進路ガイダンス中だということを、律はようやく思い出す。

「すいません」

 律が軽く頭を下げると、教員はあからさまに大きくため息をついて、再び説明をし始めた。

 これからの人生を決める重要な選択だからとか、よりよい大学に入れば大企業に就職できるとか、自分のやりたいことをちゃんと決めなければ将来露頭に迷うとか、耳にタコができるほど聞かされた、説教じみたもっともらしい言葉は、特急列車みたいに律の耳を通り過ぎていく。

「3年後、5年後、10年後の自分を想像して、悔いのない選択をするように」

 その言葉だけが、唯一、律の耳に残った。

 ガイダンスを終えた生徒はみな、家路を急ぐようにマフラーやコートを羽織って教室から去っていく。その人混みに紛れるように、同じように律も教室を出る直前、呼び止められた。首だけ振り返ると、薄縁の眼鏡をした男が立っている。担任だ。

「なんですか?」

 妙に歯切れ悪く、目線を泳がせながら担任は顎を摩る。

「ああ、いや。今朝、雨宮のお父さんから連絡があってな」

 ぴくり、と僅かに律の肩が跳ねる。

「息子はちゃんと学校に通ってるか、って言われてな」
「……そうですか」

 自宅に残した置手紙には、学校には通うから余計な事をしないでくれ、と書き連ねたことを律は思い出す。その確認のためにわざわざ学校に連絡したのだろう。ご苦労なことだった。

「もし、何か悩んでることがあるなら、いつでも言ってくれ。相談に乗るから」
「ありがとうございます」
「ただし、俺に出来ることはそこまでだ。あとは、お前が親御さんと話し合わなきゃどうにもならん。まあ、お前の成績だったらどこの大学でも狙えるだろうから、話し合えば解決できるさ」
「───いい大学に入ることが、正解ですか? それが、悔いのない選択なんですか?」

 担任の面食らった表情を見て、律はしまったと思った。呼び止められないよう、そのまま頭を下げて、そそくさと教室を後にした。

 *

 その日は、まったくと言っていいほど睡魔がやってこなかった。
 家出騒動を抜きにしても、律の作曲のペースは明らかに落ちていた。

 『創作』において、切っても切れない関係、所謂スランプという奴だ。
 曲を作り始めて初めてスランプのドツボに嵌っていた。

 続きの歌詞が書かれることのないネタ帳も、まったく変わらないPCのピアノロール画面も、いい加減に見飽きて、律は頭を掻きまわしながら床に転がった。

 ふと横を見れば、鞄の中から件の用紙がはみ出ているのが見えた。その端を引っ張りだそうと手を伸ばして、途中で止まる。

「何してんだ、俺は……」

 何もかも中途半端。『ITSUKA』のことも、父のことも、進路のことも、すべてが五月蠅くがなり声をあげれば、音を紡ぐことなどできるわけがない。何もかもに嫌気が差して、いっそこのままどこか遠くにでも逃げ出してしまいたくなる。

「なんて、できるわけないか」

 嘲笑うように薄く瞼を閉じた律の視界に、ふっと、影が落とされた。続いて降ってきた声は、随分と明るかった。

「おーおー。青春してんな、非行少年?」

 瞼を開けると、律の視界に蛍光灯の明かりで照らされた白髪が映り込む。律の顔を上から覗き込むように腰を屈める男の姿が、そこにはあった。

「笹原、さん?」
「笹原さんは、ちょい仰々しいな。夕爾でいいぜ。俺も律でいいか?」
「……どうぞ」

 律が起き上がると、夕爾はすっと曲げていた腰を戻した。  

 ツルミ荘にやってきた初日以来、あまり見かけなかった夕爾の登場に律は少なからず緊張する。何せ、透花から今日は自宅に戻ると連絡があった。つまり、ここにいるのは律と夕爾の二人だけだ。

「珍しいですね、この時間に帰ってくるの」
「まあ、今日はたまたまな」
「夜遅くまで何を?」
「ナイショ」
「……そうですか」

 これ以上深堀できる仲ではないから、律はそこで会話を終わらせるしかなかった。

「じゃ、ほどほどに頑張れよ~少年」

 律の肩を軽く手で叩いて、夕爾は踵を返した。すると、夕爾が片手に抱えていた紙の一枚がすり抜けて、落ちる。

「夕爾さん、何か落としました、……よ?」

 夕爾を呼びかけながら、その落ちた用紙を律は拾い上げて───目を瞬かせる。振り返った夕爾が無言で、すぐさまその紙を律から奪い取った。紙の隔たりを失った律の前に、じとりと睨みを聞かせる眼がふたつ。

「見たな?」

 それは、端的に、しかしどこか圧力のある問いだった。

「ええと、」
「見ただろ」
「見てな、」
「見ただろ」
「……はい」

 律はすぐさま白旗を挙げた。誤魔化す暇すら与えてくれなかった。

「すいません、見るつもりは」
「いや、俺の不注意だから別に謝る必要ない」

 律の記憶が正しければそのA4用紙に描かれていたのは───コンテ、ではなくネームというのだろう。漫画的に言えば。
 そしてそれはおそらく、透花が待ち続けている物語の続きだということは、夕爾の過剰な態度から察するに余りあった。 

 勝手に見てしまったという居た堪れなさに顔を伏せる律を他所に、ぐるる、と腹の虫が一つ鳴った。思わず律は自分の腹を押さえた。なぜこんな絶妙に悪いタイミングで鳴るのか。

 しかし、その音を皮切りに夕爾の締まりのない笑い声がした。

「なあ」
「……はい」
「今から付き合え」
「へっ? どこに?」

 戸惑う律に、夕爾はにんまりと悪い笑顔を浮かべた。語尾にハートマークをたっぷり付けて。

「ちょっとイケないとこ」

 *

 表面に浮かぶ健康に悪そうな油を、遠慮なくレンゲですくう。食欲を誘われる、醤油の香りに律は思わず胸が躍った。

「おうおう、俺に感謝して遠慮なく食え? 替え玉は2回までな!」

 律の向かいに座った、景気よく割りばしを割った夕爾が、少年みたいに笑う。しかし、目の前のラーメンを啜る前に律は確認しなければいけないことが一つある。

「……もしかして、ちょっとイケないとこって、ここですか?」
「当たり前だろ? ド深夜ラーメンは重罪だぞ! 下手すりゃ捕まるぜ~?」

 捕まるわけねえだろ、なんて突っ込みを律はぐっと飲み込んだ。律の反応を見て、夕爾は面白そうに目を細めた。

「はっはーん? 一体どんな想像をしたんだ、お兄さんに言ってみ? ほれほれ」
「箸で指さないでください」
「この思春期むっつり少年め」
「誰がむっつりか!」
「は~やっぱうめー。ほら、さっさと食わねえと冷めちまうぞ?」

 完全に夕爾のペースに巻き込まれた。
 まったく悪びれる様子もなく、麺を啜る夕爾の旋毛を見ながら、律はため息をつく。 
 
 これからはこの人の言うことは容易に信じまい、と心に誓うように律は両手を合わせてから、ラーメンを食べ始めた。



「食った食った~」

 色褪せた赤の暖簾をくぐって、律たちはラーメン屋を出た。温まって熱いくらいの身体にちょうどいい冷たい風がひゅうひゅうと吹いている。 

 息を吐くと、真っ白な靄が澄んだ夜空に溶けていった。数歩前を行く夕爾の足元に視線を落とし、律も同じくらいのスピードで歩く。 

 夜風に乗って、夕爾の声が流れてくる。

「旨かったか?」
「まあ」
「はは、可愛くねえの」

 ぴたり、と夕爾の足が止まった。律の足も続いて止まる。振り返った夕爾の表情は、暗がりの呑まれてよく見えなかった。

「付き合ってくれた礼に、人生相談にでものってやろう。なんていうか、人生の先輩として?」
「……そんな年離れてないでしょ」
「はは、減らず口を。いいのかな〜? 家主に盾突いても」

 それを言われると、律はもうぐうの音も出ない。

「ん、そうだなー。何でも、3つ質問に答えてやるよ」

 律の前に立てられた3本の指。
 どうやら、向こうは折れる気はなさそうだった。律はひとつため息をついて、再び歩き出す。

「じゃあ、質問です」
「どうぞ?」
「夕爾さんはどうして、漫画を描こうと思ったんですか?」

 少しだけ考えるような素振りをして、さらり、と夕爾は言った。

「モテたくて」
「…………………………は?」

 たっぷり時間をかけて、彼の言葉を飲み込もうとしたが、嚙み砕くにはあまりに固すぎて喉には通らなかった。思わず隣を振り返った律の視線と、夕爾の視線が合う。なんでそんな純粋な瞳をしてんだ、と律は突っ込みたくなった。

「ええ!? 逆にモテたい以外なくね?」
「ないです」
「はいダウト! つーか漫画描く奴より音楽やってる奴の方が、女にモテたいって下心しかねーだろ!! それ以外の動機で音楽はじめる奴なんかいんのか!?」
「偏見酷すぎません!?」
「じゃあ、自分は一切の下心なく100%純粋に音楽やってるって言えんのか? お? 神に誓って言えんのか? ほれ、俺の目を見て言ってみ?」

 夕爾は真実を白日の下に示さんとする探偵が如く、律の眼前に迫り来る。

「ぐっ……下心はな…………な、くはないです」
「ほれみろー!」

 律はがくっと肩を落とした。なぜだか物凄く負けた気分だった。
 意気揚々と再び律の前を歩き始める夕爾の背中を、律は恨みたらしく睨んだ。

「で、結果はモテたんですか?」
「よし。次の質問をしろ」

 その返答だけで、結果は分かった。律はふっと、軽く笑って次の質問を考える。

 ふと、頭に件のネームのことが思い浮かんだ。

「じゃあ、質問ふたつ目。続きを描くつもりは、ありますか」
「今はない」

 即答だった。余地すら垣間見えなかった。

「あれは、単なる気まぐれ。たまたま流れてきた動画のMVにちょっと触発されちまっただけだ。柄にもなく、な」
「きっと、喜びますよ」

 誰よりも続きを待ち望んでる人たちを、律は知っている。あえて名前を出すまでもなく、夕爾も同じく彼らを思い浮かべたのだろう。少しだけ苦しそうに眉を下げる。

「いつ描かれるかも分からない続きのために、大事なファンをぬか喜びさせるなんて、漫画家としてそんな残酷なことできっかよ」
「そう、ですか」
「だから、あいつらには内緒な。ラーメンは口止め料ってこと」
「……分かりました」

 律が頷くと、夕爾は少しだけ安心したようにくしゃりと笑った。そうして、律の胸に拳をとん、と一つ置いた。

「ありがとな」
「何がですか?」
「『創作』を聴いて、俺はまたペンを持つ気になれた。だから、ありがと」

 その言葉が、何よりも律の心に響いた。
 顔を逸らし、小さく息を漏す。少しでも油断したら、視界が揺らいでしまいそうだったから。誤魔化すみたいに、律は皮肉を吐く。

「……それは、透花に直接言った方がいいんじゃないですか?」
「言えるか、ぶぁか。兄の沽券に関わんのォ!」

 いつの間にか軽口のやり取りすらできるようになったところで、ツルミ写真館の看板が数メートル先に見えてきた。
 この問答も、そろそろ終わりが近づいてきた、ということだ。

「最後の質問です」
「ああ」

 律は立ち止まって、閉じた瞳をゆっくりと開く。少し先で立ち止まった夕爾が、こちらを振り返る。

「───夕爾さんは、『創作』のためなら、死ねますか」

 その瞬間、時が止まったみたいに、しん、と静まり返った。 

 率は絡まった目線だけは逸らさなかった。

 真意の読み取れない透花に似た藍色の瞳が、すっと細まる。皮膚を突き刺すような鋭さがそこにはあった。

「それは、『創作』を投げ出した俺に対する当てつけのつもりか?」

 その返答に律は、すぐさま自分の質問が最低な当てつけだというのことに気が付いた。

「あ、いや、そういうつもりじゃ、」
「今の俺には、耳に痛いな。その質問は。……ああ。いいよ、別に怒ってねえから」

 ひらりと手を返して、夕爾は唇で薄く笑った。夕爾の一言で肩を撫でおろした律を横目で見てから、そのまま空を仰ぐ。 
 その横顔は、あまりに儚くて一度瞬きをすれば、跡形もなく消えてしまいそうだった。

「『創作』のために死ねる、か。それに対する返答は、ノーだよ。それができれば、本望だとは思う。……けど、俺には結局、出来なかった。命までは賭けられなかった。あっち側に行ける人間じゃなかったんだ」

 夕爾の視線がすっと律の方へ向けられる。

「律、お前はどっちだ?」