目を開けたら、そこには知らない天井があった。いつも目を覚ました時の感覚とは違う、本当に知らない家の天井である。
吊り下げの照明から、切り替えする紐の先がぐるぐると回っている。畳独特の、井草の匂いがした。再び微睡の中へ落ちようとしていた律を覚ますように、頭上でメッセージの通知音がぴこん、と鳴った。手に取って確認すると、通知の相手は纏だった。
『大事な話があるから、今日の昼そっちに行く』
律は、か細く息を吐き出しながら、スマホを放り投げる。雑音が多すぎて、頭の中で羅列していた音符はまだあちらこちらに飛び散っている。
この曲につけるタイトルを、まだ、律は決められずにいた。
*
「メジャーデビューの打診が来てる」
纏の口から発せられたその台詞は、あまりに淡々としていた。
午後3時より少し前。
ツルミ荘の共有スペースであるリビングには、腹の奥底を圧迫するような重い空気が流れる。言葉を失ったまま呆然とする透花と律を置き去りにして、纏は、向かいに座るふたりにスマホの画面を向けた。そこには、纏とその担当者とのメールでのやり取りが表示されていた。付け加えるように、纏は続けた。
「ちゃんとした大手レコード会社だよ。詐欺とかではないのは確認してある」
一呼吸置いて、纏は猫のような真意を伺う瞳をふたりへ向けた。
「大事な話って言うのは、『ITSUKA』のこれからのことだ」
「これからの、って」
透花の問いに纏ははっきりと告げる。
「───3月5日で『ITSUKA』は解散するのか、それとも続けていくのか」
メンバーの誰もが頭の片隅にはあっても決して口には出せずにいた、重大な選択肢を纏は容赦なくふたりに突き付けた。
「にちかと、佐都子には昨日の夜にもう話してある。その上で、僕らは選択権をふたりに委ねると決めた。だから……、透花、律」
ゆっくりと二人の顔を往復して、纏は静かに口を開く。
「ふたりが、決めて。だって、『ITSUKA』は、ふたりが始めたことだから」
刻々と迫るタイムリミットを告げるように、振り子時計の鐘の音が響き渡った。
*
律は『劣等犯』の作曲時以降、一度も聞かなかった、母の曲を聴く。
律にとってそれは、儀式だったはずだ。自分は間違っていないはずだ、と再確認するための。けれど、今はそんなことはどうでも良くなってしまった。燃え盛っていた怒りも、痛みも、一時の感情に過ぎず、とっくの昔に喉元を通り過ぎてしまった。
(だったら……、なんで、俺は、)
縁側の床が氷のように冷たくて、心の奥まで凍っていくようだった。耳につけたイヤホンを巻き込んで、律は膝を抱えて丸くなる。右手にあるぐしゃぐしゃの紙屑を、じっと見つめ、何度目か分からないため息をついた。煩雑な感情が律の頭の中を乱していく。
(どうして俺は、まだ、)
ぴとり、と人肌よりも温かい何かが、律の指に触れる。僅かに顔を上げると、白く湯気の立つマグカップを両手に持った透花が、律の顔を覗き込むように首を傾げた。
「ココア、飲む?」
「……あ、ああ。ありがと」
律は慌てて右手をポケットに突っ込んで、差し出されたマグカップを受け取る。耳につけたイヤホンを外しているうちに、透花が律の隣に腰を下ろして、真剣な顔でマグカップに息を吹きかけている。揺れる湯気とともに、優しい甘い香りが漂ってくる。
夜のツルミ荘は、まるで外の喧騒が嘘のように粛然としている。まるで、この世界にいるのはふたりだけなんじゃないかと、錯覚するくらい。
「……何、聴いてたの?」
先に沈黙を破ったのは、透花だった。
「母さんの曲」
「『Midnight blue』?」
「うん。透花も、聴く?」
「いいの?」
律は返事の代わりに、イヤホンの左側を透花に差し出した。戸惑いがちに透花の白くて細い指がそれを取る。一瞬、透花の熱が律の指先に触れてどきりと心臓が跳ねた。ふたりでイヤホンを分け合って、『Midnight blue』をスマホで再生する。タイトルの通り、真夜中の夜を思わせる、儚く、途切れそうな旋律に律は耳を澄ませる。
「ねえ、律くん」
「……ん?」
「律くんは、どうしたい?」
透花の問いに主語は無かった。けれど、律は透花の言わんとすることすぐさま理解する。口を開くが、声は出なかった。ひゅう、と乾いた喉の音がする。そうして、ようやく出た返答は情けないほど曖昧なものだった。
「……分からない」
律の無責任な言葉に、透花は特に怒るわけでもなく、そっか、と短い返事をした。
「透花は?」
「わたしは……、わたしは、まだ、描き足りない。だから、描き続けたいって、今はそう思うよ」
「……すごいな、透花は」
「どうして?」
「俺は未だに、分からないままだ」
曖昧にしていた選択を前に、長い間立ち尽くしている。自分で自分の感情が理解できない。どうしたいのか、何をしたいのか、思考が行ったり来たりを繰り返している。それではいけないと分かりながら、選ぶことを躊躇い続けていた。
「はー、生きるのってムズい。ゲームみたいに、セーブしてやり直しできたらいいのに。決まったストーリーに沿って進めていくだけだったら、こんなに悩むこともない」
「確かに」
くすくす、と小鳥が鳴くように透花が笑って、それから、律の方へと首を傾けた。
「でも、何もかもやり直しができたら、きっと世界はちょっとだけつまらなくなるよ。だって、欠陥のない完璧な人間からは、『創作』は生み出せないから」
深い青の瞳が、すうっと細くなる。いつも律が透花にやるように、小さな掌を律の頭にのせて優しく撫でた。
「律くんにもきっと、見つかるよ。探してる答え」
分かったら一番最初に教えてね、と透花は最後にひと撫でして離れていった。
その手を追いかけて掬い取る資格は、まだ、律にはない。
吊り下げの照明から、切り替えする紐の先がぐるぐると回っている。畳独特の、井草の匂いがした。再び微睡の中へ落ちようとしていた律を覚ますように、頭上でメッセージの通知音がぴこん、と鳴った。手に取って確認すると、通知の相手は纏だった。
『大事な話があるから、今日の昼そっちに行く』
律は、か細く息を吐き出しながら、スマホを放り投げる。雑音が多すぎて、頭の中で羅列していた音符はまだあちらこちらに飛び散っている。
この曲につけるタイトルを、まだ、律は決められずにいた。
*
「メジャーデビューの打診が来てる」
纏の口から発せられたその台詞は、あまりに淡々としていた。
午後3時より少し前。
ツルミ荘の共有スペースであるリビングには、腹の奥底を圧迫するような重い空気が流れる。言葉を失ったまま呆然とする透花と律を置き去りにして、纏は、向かいに座るふたりにスマホの画面を向けた。そこには、纏とその担当者とのメールでのやり取りが表示されていた。付け加えるように、纏は続けた。
「ちゃんとした大手レコード会社だよ。詐欺とかではないのは確認してある」
一呼吸置いて、纏は猫のような真意を伺う瞳をふたりへ向けた。
「大事な話って言うのは、『ITSUKA』のこれからのことだ」
「これからの、って」
透花の問いに纏ははっきりと告げる。
「───3月5日で『ITSUKA』は解散するのか、それとも続けていくのか」
メンバーの誰もが頭の片隅にはあっても決して口には出せずにいた、重大な選択肢を纏は容赦なくふたりに突き付けた。
「にちかと、佐都子には昨日の夜にもう話してある。その上で、僕らは選択権をふたりに委ねると決めた。だから……、透花、律」
ゆっくりと二人の顔を往復して、纏は静かに口を開く。
「ふたりが、決めて。だって、『ITSUKA』は、ふたりが始めたことだから」
刻々と迫るタイムリミットを告げるように、振り子時計の鐘の音が響き渡った。
*
律は『劣等犯』の作曲時以降、一度も聞かなかった、母の曲を聴く。
律にとってそれは、儀式だったはずだ。自分は間違っていないはずだ、と再確認するための。けれど、今はそんなことはどうでも良くなってしまった。燃え盛っていた怒りも、痛みも、一時の感情に過ぎず、とっくの昔に喉元を通り過ぎてしまった。
(だったら……、なんで、俺は、)
縁側の床が氷のように冷たくて、心の奥まで凍っていくようだった。耳につけたイヤホンを巻き込んで、律は膝を抱えて丸くなる。右手にあるぐしゃぐしゃの紙屑を、じっと見つめ、何度目か分からないため息をついた。煩雑な感情が律の頭の中を乱していく。
(どうして俺は、まだ、)
ぴとり、と人肌よりも温かい何かが、律の指に触れる。僅かに顔を上げると、白く湯気の立つマグカップを両手に持った透花が、律の顔を覗き込むように首を傾げた。
「ココア、飲む?」
「……あ、ああ。ありがと」
律は慌てて右手をポケットに突っ込んで、差し出されたマグカップを受け取る。耳につけたイヤホンを外しているうちに、透花が律の隣に腰を下ろして、真剣な顔でマグカップに息を吹きかけている。揺れる湯気とともに、優しい甘い香りが漂ってくる。
夜のツルミ荘は、まるで外の喧騒が嘘のように粛然としている。まるで、この世界にいるのはふたりだけなんじゃないかと、錯覚するくらい。
「……何、聴いてたの?」
先に沈黙を破ったのは、透花だった。
「母さんの曲」
「『Midnight blue』?」
「うん。透花も、聴く?」
「いいの?」
律は返事の代わりに、イヤホンの左側を透花に差し出した。戸惑いがちに透花の白くて細い指がそれを取る。一瞬、透花の熱が律の指先に触れてどきりと心臓が跳ねた。ふたりでイヤホンを分け合って、『Midnight blue』をスマホで再生する。タイトルの通り、真夜中の夜を思わせる、儚く、途切れそうな旋律に律は耳を澄ませる。
「ねえ、律くん」
「……ん?」
「律くんは、どうしたい?」
透花の問いに主語は無かった。けれど、律は透花の言わんとすることすぐさま理解する。口を開くが、声は出なかった。ひゅう、と乾いた喉の音がする。そうして、ようやく出た返答は情けないほど曖昧なものだった。
「……分からない」
律の無責任な言葉に、透花は特に怒るわけでもなく、そっか、と短い返事をした。
「透花は?」
「わたしは……、わたしは、まだ、描き足りない。だから、描き続けたいって、今はそう思うよ」
「……すごいな、透花は」
「どうして?」
「俺は未だに、分からないままだ」
曖昧にしていた選択を前に、長い間立ち尽くしている。自分で自分の感情が理解できない。どうしたいのか、何をしたいのか、思考が行ったり来たりを繰り返している。それではいけないと分かりながら、選ぶことを躊躇い続けていた。
「はー、生きるのってムズい。ゲームみたいに、セーブしてやり直しできたらいいのに。決まったストーリーに沿って進めていくだけだったら、こんなに悩むこともない」
「確かに」
くすくす、と小鳥が鳴くように透花が笑って、それから、律の方へと首を傾けた。
「でも、何もかもやり直しができたら、きっと世界はちょっとだけつまらなくなるよ。だって、欠陥のない完璧な人間からは、『創作』は生み出せないから」
深い青の瞳が、すうっと細くなる。いつも律が透花にやるように、小さな掌を律の頭にのせて優しく撫でた。
「律くんにもきっと、見つかるよ。探してる答え」
分かったら一番最初に教えてね、と透花は最後にひと撫でして離れていった。
その手を追いかけて掬い取る資格は、まだ、律にはない。



