音楽なんかで世界は救えない


 明けない朝が、どこまでも続いている。
 息が途切れて心臓が悲鳴を上げようとも、思考が薄らいで目的すら見失いそうになっても、足を止めることを辞めない。スマホから聴こえる言葉を一言も聞き漏らさぬよう、耳に意識を集中させながら、空を仰ぐ。

 泣きたいくらいに、美しい夜空がそこにはあった。

 *

『お前、ひとりの人間で承認欲求満たすの、やめとけ。自分が辛くなるだけだ』

 いつか、纏にそんなことを言われたことを、佐都子は思い出す。
 この陳腐な復讐劇の舞台に上がって、ようやく佐都子はその意味を真の意味で理解する。たった数ミリ、たった数センチ、踏み出した向きが違えば、それは進むほどに軌道修正のしようがないほどすれ違う。だから、彼女の影に焦がれた哀れな抜け殻が、どれほど手を伸ばしたところで届かないのは道理だったのだ。
 だから、これは、必然だった。

「一応さ、犯人らしく弁解でもしてみよっか? 別に最初からこんな馬鹿なことしようだなんて、思ってなかったんだぜ、私は。『無色』を作ったきっかけなんて最初は、ただの自己満だった。透花が描いたイラストの線をなぞって、透花が描くのを想像しながら色をのせたらさ、そうしたら、もう腹抱えて笑えるくらい私が望んでたものが出来上がっちゃったの。私がずっと、ずーっと欲しかった、透花の世界」

 一瞬にして、佐都子の承認欲求は満たされた。何にも代えがたい幸福とさえ錯覚した。
 その裏側で、何かが少しずつすり減っていくような感覚には知らないふりをして、佐都子はさらに透花の世界にのめり込んだ。

「透花から新曲のタイトル聞かされた時、私は思ったよ」

 軽く笑って佐都子は振り返る。

「───ああ。私はまた、置いて行かれる、ってね」

 佐都子の前に立つ、心優しき少年は、何も言わず目を伏せた。

「よく言うじゃん、人間は窮地に追い込まれると本性を現す、って。……うん。だから、そういうこと。ごめんね。私ってば、纏が庇い切れないくらいには最低な人間なんだ、知らんかったでしょ?」

 纏からの返事はなかった。それでも構わず、佐都子は続ける。

「過去と向き合って覚悟を決めた透花は、今よりもっともっと上手くなる。凡人の私なんか置いて、遠くへ行っちゃうんだ。……私には、それが、耐え切れなかった」

 自己保身の塊。劣等感に溺れた救いようのないクズ。孤独に耐え切れなかった天邪鬼。
 それが緒方佐都子のすべてだった。自らの腹を切り裂いたら、きっと見えるに堪えない真っ黒で、薄汚い膿が流れ落ちることだろう。

「結局さ、私は───私と同じくらい、透花に傷ついて欲しかった。ただそれだけ」

 殴られる準備は、出来ていた。罵倒されることも、折り込み済みだった。何なら首絞められたって、佐都子は黙って受け入れただろう。
 しかし、顔を上げた纏から返ってきた返事は、拍子抜けするほど短い言葉だった。

「それが本心?」

 猫のような双眸が、心の奥底まで見透かすように佐都子をまっすぐ見据えている。

「そうだよ」
「透花に置いて行かれたくなくて、こんな真似をしたって?」
「……うん」
「透花が創作を辞めたら、これ以上置いて行かれなくて済むから?」
「っ、だから、そうだって言ってんじゃん!」
「だったら! なんで、お前は! お前は、わざわざ僕に『ミヤ』のアカウントを教えたんだよ」

 その問いかけに、佐都子は僅かに怯む。
 しかし、初めから纏にそんなことを言われるなんて想定していた。
 それくらい、纏は聡い人間だからだ。

 佐都子は、落ち着きを取り戻すために閉じた瞼を、静かに開けた。

「……私がやったことだって気付けば、透花はもっと傷つくでしょ? その布石のため。ヒントは多い方がいいでしょ?」
「それならお前は、最後まで隠すべきだった。種明かしは、透花の心が完全に折れてからでもよかったはずだ。だってその方が、確実だ。なのにお前はそれをしなかった。それは、どうして?」

 それは、返ってくる答えがただひとつだと思っているような、確信めいた問いかけだった。

(……ああ、本当に、馬鹿だ)

「そ、れは」

(私も、纏も、)

「……透花の創作は私にとって、この世界の何よりも嫌いで、誰よりも好きだから」

 佐都子の言葉によって、纏の瞳には希望という名の光が僅かに灯りかける。
 けれど、それを打ち砕く用意なんて、とっくの昔に出来ていた。

「───とでも言ったら、纏は納得できるの? あっははは! だとしたら、漫画の読みすぎじゃない? ちょっとの良心さえあれば、犯した罪が無くなるとか、すべてが許されるとか、そんな都合の良い話あるわけないじゃん。私に例え、そんな思いがあったとして……だから、何だって言うの? 透花の絵を盗んで、挙句、盗作だって罪吹っ掛けて、透花のこと傷つけてんだよ? しかも、思いつく限りの一番最ッ低な方法で! そんな人間が最後に残ってたゴミカスみたいな一抹の良心引っ提げれば、全部許されるなんて間違ってる。……そういうとこ、本当に甘いよ、纏は。だから私みたいな人間に騙されるの」

 ぴんと、張り詰めていたピアノの弦が切れたみたいに、纏は叫んだ。

「許す許さないとか、そんなんどうだっていい! 僕が一緒に頭下げてやる! 一緒に何遍だって謝るよ、何年かかってでも! 僕がどうにかするから! だからっ、だから、」
「それは無理な話だよ。だって、悪いことしたら、ちゃんと報いを受けなきゃ。そうしないと、釣り合いが取れない」

 佐都子は、自分のポケットに手を入れ、『それ』を取り出した。
 最初から、結末は決めていた。『闇の正義ちゃん』だなんてふざけたアカウントで、透花を貶める計画を実行に移したその時から。己の身勝手さで彼女から『創作』を奪うのなら、それ相応の対価を支払うべきだろう、例えば彼女と同じものとか。それがせめてもの償いだった。

「……なんだよ、それ」

 佐都子は、『それ』からキャップを外した。床に落下したキャップがからからと空虚な音を立てて足元に転がる。利き手をテーブルに押し付けた。薄暗い月明りが差し込む一室で、『それ』の刃先は背筋が凍るほど不気味に、そして鈍く光る。
 その暗闇の中ですら、纏の顔が一瞬にして蒼褪めたのが、一目で分かった。纏は佐都子に向かって手を伸ばそうとするが、体中が強張って上手く動かせない。

「何してんだ」
「……こんな下らない茶番劇は、もうおしまい」
「っ、佐都子!」
「───これで、痛み分けだね」

 自らの利き手に向かって、佐都子は躊躇なくナイフを振り下ろす。
 それは、まるで、映写機の中にあるフィルムがスクリーンに映し出される前の、ほんの一瞬の間が永遠に続くようだった。弾かれた様に佐都子へ手を伸ばす纏の怒号も、全身の血が沸き立つほど五月蠅く動いていた心臓も、すべて佐都子の世界から消え失せた。
 一人ぼっちの世界で、佐都子はもう手遅れになった、今この現実を嘆く。

(あーあ。こうなるくらいなら、ちゃんと、言えばよかった)

 今更、後悔するにはもう何もかも手遅れだけど、と佐都子は下らない前置きをして、想う。

(ねえ、透花。私は、)

 その刃先がついに薄い皮膚を食い破ろうとした、その時だった。