透花が、絵を描くことをやめたのは、中学一年の春のことだった。
透花の兄である笹原夕爾が、所謂、盗作疑惑で世間からバッシングを受けて、透花は日に日に気力を失っていった。
小学生の頃は毎日のように一緒に通っていた『アリスの家』にも、ぱったり顔を出さなくなった。
先生である有栖川優一から彼女が辞めたと聞かされたのは、透花が『アリスの家』に姿を現さなくなってから一か月後のこと。
「佐都子ちゃんだけには、先に伝えておきたくて」
「透花ちゃんは、少し前に辞めるって連絡があったんだ」
彼は、それだけを言い残し、部屋を後にした。
『アリスの家』の一室にひとり、取り残された佐都子は、ふと横を見やる。
そこに、瞳を輝かせながら筆を走らせる彼女の姿は、もう、無い。
描きかけのまま放置されたキャンバスと埃がかった椅子が、ひとつ、取り残されていた。
───暗転。
あの日のことを、今でも覚えている。
太陽と月が入れ替わるほんの少しの間。
赤い夕焼けにを染められた静かな廊下に、小さな足音が鳴っている。
次第に近づく音は、佐都子に舌が乾くような感覚と、僅かな手の震えを実感させた。
「透花」
佐都子の呼び声に、足音はぴたりと止んだ。
俯いたままだった顔が、少しだけこちらを向く。開けた窓から吹き込む風が、今にも彼女を攫ってしまいそうなほど、朧気で霞んでさえいた。
「あのさ、透花」
こういうときに限って、気の利いた慰めの言葉なんて一つも出て来やしない。
佐都子は視線のやり場に困って自分の指先を弄びながら、なるべく慎重に言葉を選ぶ。
「また、気が向いたらで、いいからさ。『アリスの家』、おいでよ」
透花からの返事はない。俯く彼女の瞳がこちらを向くことは、無かった。
「透花がいないと、寂しいよ」
「……」
「ねえ、透花」
彼女へ伸ばした手は、一抹の希望を賭けて神に縋りつく信者に等しい。
そして、やっとの思いで掴んだその希望は、透花によって、いとも簡単に振り払われた。
「……もう描くのは、やめたよ」
透花に振り払われた手のひらの感触が、今もまだ消えない呪いのように残留している。
遠ざかる透花の背中を追うように手を伸ばした。もう、何もかも遅いというのに。
竦んだ足は透花を追いかけるための一歩を踏み出すことを拒んでいた。
「っ、待ってるから! ずっと!!」
張り上げた声が、透花の足を止めるに値しないことなど初めから分かっていた。
それでも、声を、あげる。
「『アリスの家』で待ってるから!!」
無意味な言葉を羅列するようにあげつらう思考の裏側で、本当はこう、思っていた。
───ああ、よかった、と。
透花の影を追うように伸ばしていた手はただ空しく虚空を掻いて、やがて落ちた。
自分勝手に背負っていた重荷が下りる代償には、まだ気が付かないまま。
佐都子は、静かに息を吐く。
(ようやく、私は……楽になれる)
───暗転。
それから、いくつもの月日が流れた。
かつて、透花が座っていた席は、もうずっと空席のままだった。それでも時間は止まらない。
佐都子は、薄く色づいた桜が散っても、青々とした新緑が赤く染まっても、指の悴むような寒さが訪れても、描き続けた。
誰もいない『アリスの家』で、ひとり、黙々とキャンバスに向かい合う。
「佐都子、一位じゃん! すごーい!」
「わー、さすが上手」
「ずっと描いてたもんね」
「よかったね、佐都子ちゃん」
あれほど焦がれ望んだ彼女と同じものは、いざ手にすると案外、呆気なかった。
ようやく満たされると思っていた心の空白は、しかし、底に穴の開いたバケツみたいにどれほど水を注いでも、穴から漏れ出して、ただ自分の足元を濡らすだけだった。
それが、より自分を惨めにする。
どれほど時間をかけて、より精巧で緻密で繊細な、誰もが息を吞むような絵を描いても、何一つ満たされなかった。
(……私は、)
嗅ぎ慣れたインクのにおい。
ペインティングナイフとキャンバスの布が擦れる音。
無造作に散らばった絵具と筆。
数センチ開いた窓の隙間から、時折、暖かな風が運ばれてくる。
佐都子は、迷うことなく、頭の中で描いた軌跡をたどるように筆を走らせる。だというのに、指先の微小な震えによって、それはたちまち雑多な線へとなり替わる。
描き直しても、描き直しても、描き直しても、頭の中で描く正解に辿り着けない。
(違う、)
心に開いた空白みたいな黒さが、キャンバスを汚していく。
(違う、違う、違う、違う!)
永遠に満たされることのない焦燥感だけが、募っていく。
(もっと、鮮やかだった。もっと、心に訴えかけてきた。もっと、寂しげだった。もっと、忘れられない特別があった)
(何もかも、足りない。こんなんじゃ、届きもしない)
は、と息を吐き出して、力を失った腕は地面に向かって落下する。
(この先どんなに努力しても描き続けても、やっぱり、私は……透花には為れない)
からん、と乾いた音が響く。
手にしていたはずの筆が、床に転がっていた。
ふと、横から聴こえてくるのは在りもしない戯言だ。けれど、佐都子が伸ばすよりも先にその筆に触れた白い手は、紛れもなく、彼女のものだった。
『もー佐都子、ほら。落としたよ?』
佐都子は、気が付けば横を振り返っていた。
一瞬見えたはずの幻影は、ひとたび瞼を閉じれば夢のように霧散していた。
そこにあったのは、佐都子と同じように取り残されてしまった椅子とキャンバスだけだ。
「……あ、は……はは、っは、」
戯れに笑ってみるけれど、声は震えていた。
一度視界が滲んでしまえば、後はもう、止めようがなかった。
口を押えて幾らか声を押し殺してみるが、指の隙間から漏れ出るそれは憎たらしいほど、部屋に響いた。
永遠に時計の針が進むことのない部屋の隅で、佐都子はただ涙を流す。
そう、ここは、誰からも忘れられた場所。
二度と、あの穏やかで、幸せな時間はやってこない。
透花にとって、ここは『特別』では無くなってしまった。煩わしい忘れ去りたい過去の記憶となった。
透花はここへは帰ってこない。
幾ら待ち続けていようとも、あのドアが開かれることはないだろう。
佐都子の僅かな期待は、飴細工なんかよりも簡単に砕け散って溶けて消えていく。
もはや佐都子は、自分自身の心を理解できなかった。この繊細で、意味不明で、複雑怪奇な感情を表す言葉がどこにも見当たらなかった。
息苦しくて、悔しくて、寂しくて、痛くて、心の底から憎らしいのに。
この世界の誰よりも、その影に焦がれている。
おそらく、世界中のどの言語でも表せない感情が佐都子の腹の中を渦巻いていた。
ただ、一つだけ確かな感情が、あった。
確かに、存在していた。
(ねえ、透花)
呼ぶ。生まれてから、何度も心の中で呼んだ名前を、反芻する。
(私、本当は、)
(透花の絵が他の誰よりも、好きだった、の)
───暗転。
『春休みから、復帰しようと思う』
中学を卒業して、高校生になるまでのほんの短い春休みにそのメッセージは送られてきた。
あの日以来、意図してその話題には触れずに来た。
毎日頻繁にやり取りしていたメッセージも、あの日を境にほんの少しスクロールだけで辿れるほど無くなっていた。
唐突な透花の心変わりに、佐都子は言い表しようのない違和感と、それを上回る歓喜に震えた。
(また、透花と一緒に……絵が描ける)
孤独だった3年間の記憶が走馬灯のように駆け巡り、佐都子は勝手に震える唇を嚙み締めた。
さんざん悩んだ挙句、返した返事はあまりに素っ気ない文面だ。
『そっか』
本当は、少しだけ、怖かった。
『アリスの家』でキャンバスに向き合う彼女の背中を想像するたび、これから描くであろう彼女の絵を想像するたび、今度こそ自分は嫉妬と劣等感に狂ってしまうのではないかと、佐都子は恐れずにはいられなかった。
この黒よりも汚い感情を、透花にだけは知られたくなかった。
彼女の限りなく透明で、朧月夜より儚い、美しい青を汚したくなかったから。
ああ、きっと。
それが、間違いだった。
───暗転。
「佐都子にしか、頼めないの! お願いします!」
両手を合わせて頭を下げる彼女のつむじを見下ろしながら、佐都子はすっと頭の中の雑音が消えていくような感覚に陥った。
高校一年生の夏休みに入る少し前のことである。
突然、透花から連絡が入り、『アリスの家』へ訪れた佐都子に透花と纏は、今までの経緯を説明してくれた。
「……そういう、ことね」
高校に入ってからの透花の急な変わりようも、そして雨宮律という上級生からなぜか透花に渡してほしいと渡されたUSBことも、分かってしまえば、呆気なかった。
いや、本当はどこかで分かっていた。
見ないふりをしていたのは、佐都子が知りたくなかったからだ。
彼女から手渡されたコンテを目にしたその瞬間、すべて、壊れてしまった。
……3年。3年、だ。
彼女が、『アリスの家』に来なくなってから、3年。一度たりとも、描くことを辞めなかった。
彼女が戻ってくることを信じて、描き続けた。
そして、ようやく戻ってきた彼女は、やはり、天才だった。
その一言でしか、言い表せなかった。
3年という長い期間、一度も『アリスの家』に現れなかった彼女は、佐都子が血反吐く思いで積み重ねた3年をいとも簡単に追い抜いたのだから。
「……これ、全部透花が?」
「えっ、う、うん。一応」
「そっか」
その時、佐都子の中に巣食う悪魔が、胎から産み落とされた。
燃え上がった炎は、何をしても満たされたなかった心の穴を残虐なまでに燃やし尽くして、すべての感情は、嫉妬へと色を変え飲み干した。
待っていた。
誰もいない『アリスの家』で、彼女がドアを開けてくれる日をずっと、待っていた。
孤独が腹の底に溜まった劣等感を忘れさせるには十分すぎるほどの、月日が経つくらい。
確かにきっかけは、劣等感だったかもしれない。彼女がいなくなって、その感情すら忘れた後、それでも佐都子が描き続ける理由は、透花だった。
それだけが、透花と自分を繋ぐ唯一の糸だったから。撓んで、絡んで、擦り切れて、元通りにならなかったとしても、縋りつかずにはいられなかった。
けれど、透花は、違った。
透花にとって、緒方佐都子という存在は、ただの同級生で、友達で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
(ああ、神様って残酷だ)
彼女に会うことを躊躇っていたのは、その事実を知るのが、怖かっただけ。ただ、それだけ。
(私は、透花がもう一度描くための『理由』にすら、なれなかった)
『同じ』にも、『特別』にも、『理由』にすらなれなかった抜け殻は、誰もいない部屋の隅で待ち続けようとも、彼女がドアを開けるその日は、永遠に訪れないことだけは知っていた。
───暗転。
「透花?」
割れんばかりの歓声。
人々は、何かに取りつかれた様にステージに立つその少女の名前を叫ぶ。誰もが『mel』の歌声に魅了されていた。
隣に立つ彼女を呼びかけると、透花は何も言わず、触れていた小指と小指を絡ませてきた。汗ばむその指先はほんの少しだけ震えていて。
けれど、そこに迷いはなかった。
確かに指先に体温を感じるのに、透花との間には宇宙の狭間より途方もない距離があるような気がした。
『mel』の出番が終わると、繋がれていた指はするりと解かれ、透花はすぐに人混みを掻き分けどこかへ行ってしまった。
取り残された佐都子は、徐々に薄れていく彼女の体温を求めるように、虚空を掻く。
(……また、)
足元を伸びる影が、次第に佐都子を飲み込んでいく。
───暗転。
「律くん、わたしね」
「もう、逃げるの、やめようと思う」
ちゃぷん、と手に持ったペットボトルの水が傾く。背中を預けた冷たい外壁が、熱気にあてられ、上せた体温を奪っていった。
街灯の下、階段に座って語らうふたりの姿は、まるで物語の主人公のようだ。
スポットライトの光で出来た影の中、立ち尽くす自分をより哀れにするための演出なのかと錯覚するくらいには。
見上げた先にあるのは、塗り潰した黒にぽっかりと穴が開いたようにはっきりと輪郭を帯びた月が寂しく輝いている。乾いた空気を吸い込むと、少し肺が痛くなるほど透明で澄み切っている。
(同じ空の下にいれば、心は繋がっている、とか)
(この空に続く先に、君がいる、とか)
(ああいう歌詞って、全部、嘘なんだなぁ)
希望的観測は現実の前にあまりに無慈悲だと、沙都子は実感した。
(だって、私はあの日から、ひとりぼっちだ)
透花に手を振り払われたその時から、違えてしまった。あの日から、一歩も前に進んでいない。
遠ざかる透花の背中を泣きながら、ただ眺めている。
だから、ほら。
もう、こんなにも遠い。
「律くんに書いてほしい曲があるんだ」
また、置いていかれちゃうね、と佐都子の耳元で悪魔は囁いた。



