音楽なんかで世界は救えない


 サイレンの音がした。
 近くで、事故でも起こったのだろうか。透花は、冷え切った部屋の中、毛布にくるまりながら己の身体を強く掻き抱いた。寒さが和らぐことは無く、さらに身を丸くして、固く瞼を瞑る。一人の世界に再び落ちようとしていたその時だった。
 テテテン、テンテテン。
 軽快な着信音が鳴り響く。勝手に身体が震える。永遠にも感じる長い着信音がようやく止んだ。身を固くしていた透花は、その音が鳴りやむと未だ震える両手を胸の前で握りしめた。続けて聴こえてくるのは、メッセージの通知音だ。それも、何度も、何度も。途切れることなく。
 透花は、毛布の中から手を伸ばして、手探りでスマホを探し当てる。小指に当たった固い感触を頼りに、スマホを掴んだ。
 毛布の中に引き入れ、スマホの電源ボタンを押した。目に染みるような明るい光に一瞬、目を細め、じんわりとその明るさに視界が合わさっていく。

「……ぁ、」

 透花の喉から洩れたのは、あまりに小さな悲鳴だった。
 メッセージの送り主は、纏だった。普段の纏からは想像もできないほど、動揺しているのか文面がめちゃくちゃだ。

『透花、電話に出て』『透花、お願い』『お願い』
『早く、出て』『律が』『お願い』
『透花のとこ向かう途中で、』

『律が、車に轢かれた』

 背筋に悪寒が走る。息が途切れる。思考が停止する。ただ、鳴り響くサイレンの音だけが頭の中を反響していた。
 肩で浅く呼吸を繰り返しながら、透花はふらつく足で立ち上がった。机や床に散らばった資料を蹴り飛ばすような勢いで、窓の方へ。震える指先で閉め切った窓の鍵を開け、サイレンの音を辿るように窓から身を乗り出した。瞬間、凍てつく風が頬を突き刺す。目の眩むような白い景色が視線の行く先を阻んでいる。どれほど目を凝らしても、殴りつけるような雪が邪魔をする。白い息が溶け込むほどの純白さに透花は、視界が揺らぐような眩暈を覚えた。
 透花は窓枠から手を離し、踵を返す。開けたままの窓から背を向け、椅子に掛けたままだったコートをひったくった。その勢いのせいか、背後で何かが落下する音がして、透花は振り返った。床に落ちたUSBが視界に入る。律がくれた、USBだった。

(……大丈夫、大丈夫、きっと、大丈夫、だ)

 根拠のない譫言を何度も繰り返し自分に言い聞かせながら、透花は膝を付いてそのUSBを握りしめ、素足のままドアの扉を開けた。



 ドアの向こう側に立っていたのは、一人の少女だった。
 自分に近づく足音に気が付いたのか、振り返るわけでもなく誰に向けたわけでもない含みを持たせた笑みを浮べた。それから気まぐれに大きく天井に向かって伸びをした。たたん、と軽やかに音を立てながら、腰を下していた机の上から立ち上がる。
 不規則に並べられたイーゼルと、描きかけのキャンバス。それらを緩く人差し指でなぞりながら、気分良く鼻歌を歌う。そうして、軽い足取りでたどり着いたのは、一枚の絵画の前である。
 伸ばした手で、ひとつひとつ筆の流れを確かめるように人差し指でなぞる。上から、右へ、左へ、そして、白い余白に辿り着いた指はすとん、と力なく落下した。
 肩まで伸びた栗色の髪が微かに揺れて、彼女はドアの方へと振り返る。いつも通り、明るい彼女らしい溌溂とした笑みをたたえて。

「随分遅かったね、纏。今日の打ち合わせは、18時からじゃなかったっけ?」
「……佐都子」

 ドアの前で立ち尽くしていた纏は、彼女の名前を呼ぶ。
 その呼び声に瞬きをすれば見逃してしまうほどの一瞬、佐都子は瞠目した。しかし、彼女の表情が崩れたのはその一瞬だけで、次に瞬きをしたときはさらに笑みを深めた彼女がそこにいた。まるで、この状況になることをずっと前から待ち望んでいたかのように。
 纏は喉から出かけた言葉を何度も飲み込んで、ようやく出た声はお粗末なほど弱弱しかった。

「佐都子」
「んー?」
「なんで、『盗作』した」

 静寂の間の後、返ってきたのは、あまりに乾ききった嘲笑だった。
 口元を歪ませて愉快そうに笑っているはずなのに、目の奥だけは真っ黒で空虚に満ちた道化のような笑みだった。

「あは、どうして? あははは……ふふ、どうしてってさぁ、そんなの決まってるじゃん」

 一に一を足せば二になる、くらいの公然とした事実を述べるように佐都子は言葉を吐いた。


「───二度と、透花が創作をしないようにするためだよ」


 纏は、期待していた。
 纏が考えうる最悪のシナリオにならないことを、彼女から答えを得るその瞬間まで期待していた。そしてそれは、あまりにあっさりと呆気なく砕け散ることになったのだった。

「あは、どうしてそんな傷ついたような顔をするの? 本当は、分かってた癖に。ああ、それとも期待してた? この最悪な状況にした私を許せちゃうくらいの動機ってやつ」

 何も言い返すことができない纏は、只黙って血が滲むほど拳を握りしめた。
 緩やかにダンスでも踊るような軽い足取りで、纏に近づく足音がした。俯く纏の視界に、纏と同じほどサイズの足が向き合う。腰を屈めた彼女の髪が纏の頬に触れる。耳元から発せられたそれは、悪魔の囁きのような歓喜に満ちた声だった。

「纏は本当に優しいよね。でもその優しさは、正しくなかったね」

 とんとん、と一ミリも慰めの感情など籠っていない動作で、佐都子は纏の左肩を叩く。

「だから、ほら。全部、手遅れになっちゃった」
「……まだ、間に合うよ」

 へらり、と何も言わず笑う佐都子の笑みが、どこか息苦しい。

「ふふ。いいね、なんか刑事ドラマみたいじゃない? 私は極悪犯で、纏はさしずめ犯人を追い詰める警察官ってか。ねえ、ここはセオリーに乗っ取って、答え合わせでもしようか。どうして私が犯人だと思ったのか、教えてよ」

 纏は手に握ったままだったスマホを無意識のうち、強く握りしめ、語り始める。
 目も当てられない、出来の悪いミステリー小説を紐解く探偵の様に。

「最初から、違和感があった」
「違和感?」
「透花が盗作をしてないとすれば、『無色』って人間が盗作をしたことになる。だって、大多数の素人から見てもトレパクしたって一目で分かるくらいだったから。じゃあ、一体そのデータを『無色』が手に入れたのか。ヒントは、『無色』って人間のアカウントでもなく、『透』でもなく───炎上の発端になった、一番初めのツイートをした人間、『闇の正義ちゃん』ってアカウントだ」
「ふうん、それでそれで?」
「……佐都子は、知ってた? 『闇の正義ちゃん』ってアカウントでトレパク疑惑だって投稿してた呟きのひとつに、『青以上、春未満』のラストシーンも矢面に挙げられてた。透花が描いたイラストはさ、振り返った少女の瞳の中に人影が描かれてたんだよ」
「えー、それは知らなかったな」
「だろうね。動画編集してた僕だって気が付かなかったから。……透花が、MV賞の締め切り当日にロゴを変更したいって急に言い出したこと、覚えてる?」
「ああ、そんなことあったっけ」
「あの時、透花はロゴだけじゃなくて、あのラストシーンにも修正加えてたんだ、こっそりね。でも、それは……本来だったら、透花だけしか知らないはずの、ほんのちょっとした落書きでしかなかった。なんでだと思う?」
「さあ?」
「───だって、あのラストシーン、クレジットタイトルになってるから。本来のMVだと、『ITSUKA』のロゴがちょうど顔に重なって瞳の影なんか、隠れて見えないはずなんだよ」
「……」
「『闇の正義ちゃん』ってアカウントが上げてた検証画像さ、ずっと、違和感があった。何が引っ掛かってたのか、ようやく分かったよ。あのアカウントで上げてた透花のイラストには───歌詞が無かった。僕が編集で付けた歌詞も、ロゴも、乗ってないイラストしかなかった」
「……」
「おかしいよね? 無関係なはずの第三者が、歌詞も、ロゴも乗ってない、原画を持ってるわけがないんだから」
「それは、たまたまネットで拾ったんじゃない?」
「たまたまネットで拾った画像が、瞳の中に映った数ミリにしか満たない、小さな人影が視認できるほど画質がいいと思う?」
「ああ~、確かに。どんだけ高画質で保存しても、画質は粗くなるねぇ。どっかから拾ってきたなら、尚更」

 深く考えずとも、それは簡単すぎる謎解きにもなれない問題に過ぎなかった。
 どうやって『無色』がMVのデータを手に入れたのか、なんて疑問に対する答えは簡単だ。

「全部、お前の自作自演だろ」

 ───すべて、内部の犯行だとするなら、簡単に説明がつくのだ。
 佐都子からの反応は何もない。それでも纏は、止めない。

「盗作した『無色』も、告発した『闇の正義ちゃん』も、それに透花を擁護した『ミヤ』も───全部、お前の自作自演だろ」
「ふふ、でもそれ、全部憶測でしかないね。証拠あるの?」
「無いよ。でも、ひとつだけ確かなことがある」
「なあに?」

 三日月のように口元に笑みを浮かべた佐都子が首を傾げた。
 一度口にしてしまえば、何もかも元には戻せないような気がして、纏は言い惑う。今、目の前にいる人間は、本当は単なる悪乗りでのっかってくれているだけで、本当は無関係だったら、なんて、そんな夢物語すらならないようなちっぽけな未練を捨てきれない。
 自分でも、馬鹿だなと笑いたくなる。痺れる舌の先を動かし、纏は絞り出した声で言う。
 今この瞬間にも、佐都子が否定してくれることを願いながら。

「透花から創作を奪うために、一番最適で、一番最低な方法を思いつく人間は……僕か、佐都子しかいない。あの時の透花を、近くで見てきた、僕らしか」

 否定も、反論の言葉も、返ってくることは無かった。

「───ふふ、あは、あはははっ、せいかーい! 正解した纏には拍手を送りまーす!」

 ぱちぱち、乾いた拍手の音が、『アリスの家』の一室に響き渡る。
 纏は生まれて初めて、誰かにこんなにも殺意を覚えた。夕爾が理不尽に見知らぬ誰かから追い詰められている所を隅で見ているしかできなかった時よりも、遥かに許容量を超える怒りが目の前を青く染め上げる。感情を押し殺したまま、纏は佐都子を睨みつけた。

「……っ、どうして? なんで、そんなことが出来る? 透花は、親友じゃなかったのかよ」
「どうして? どうして、かぁ……。まあ、きっと、纏には理解できないだろうね。理解できなくて、当然」

 佐都子は、くるりと纏から背を向けるようにターンをした。振り向いた先にあったのは、佐都子が触れていた一枚のキャンバス。青いアクリルで描かれた、片翼をもがれた天使が月だけが寂しく浮かぶ夜空に手を伸ばす絵である。纏は一目見てすぐに分かった、透花が描いた一枚だと。

「───ああ。いつだって、」
 
 愛おしいものを見るように、佐都子はその絵をなぞる。
 嘲笑とも、苦笑とも、冷笑とも取れる笑い声が、佐都子の口から洩れた。

「透花の絵は、私をゴミ屑みたいな気分にさせる」