(あの日からずっと、夜に囚われている)
いつもは固く閉じられていたドアが、ほんの少しだけ開いていた。
───しゃきん、しゃきん。
フローリングの床はまるで氷のように冷たく、素足で立っているだけでたちまち体温を奪われる。
───しゃきん、しゃきん。
真っ暗な夜の暗がりの中で、ドアの隙間から漏れ出したぼやけた月明りが伸びている。
───しゃきん、しゃきん。
何かを裂くような音が、一定のリズムを刻んでいた。そこに感情など、一切なくて、ただ淡々と機械のように。獰猛な狼の唸り声のような風が、地面を這うように時折聴こえてくる。ますますドアの向こう側に怪物でもいるのではないかと思わせた。
───しゃきん。
ついに音は止んだ。手で覆ってもいないのに、心臓の音が耳の奥でやけに鳴り響いていた。気が付けば、血の気を失った真っ白な手がドアノブに伸びていた。
本能が警告していた。絶対に開けてはいけない、と。
けれど、一度だけ。
透花は、ただ一度だけ、ドアに手を伸ばしてしまった。
ドアの向こうに待ち受けている現実が、悲哀に満ちた物語よりも残酷だとも知らず。
「なに、してるの」
黒。
黒、黒、黒。
黒、黒、黒、黒。
夜の不気味な闇すら、すべて飲み干してしまうほどの、黒。開いた窓から吹く風が、嗅ぎ慣れたインクの匂いを運んでくる。
首の折れた人形のように項垂れ、足元に広がった無残な紙きれを見下ろす兄の手には、鋏が握られていた。刃先からぽたり、ぽたり、と雫が落ち、原稿用紙に真っ黒な染みを付けていく。
出来上がった物語の死体の上で、兄は、嗤った。さも愉快そうに、憎悪と狂気に満ちた瞳を歪ませながら。
「……ふふ、あは、あははは! なにしてるって? 処分してるんだよ、要らないものだから」
目の前にいる人間は、兄ではなかった。
足元に落ちた物語たちを蟻の巣を踏み潰すみたいに、踏み付ける。さも愉快そうに。
創作に命を懸けていた人間が、自らの手で壊している現実を前にして、それを受け止めることなど、透花には到底不可能だった。
「誰にも読まれない漫画に、存在価値なんてない。ただの、塵だよ。塵は処分するものだろ? だから捨てる、当たり前のことだよ」
透花にとって、兄は指標だった。憧れだった。そして、いずれ到達すべき着地点だった。
兄の言葉は、透花の人生そのものを全否定する言葉ですらあった。
「……塵なんかじゃ、ないよ」
口から出た言葉は、吹き込む風に攫われそうなほど、あまりに弱弱しかった。
「やめようよ、お兄ちゃん。……いま捨てたらきっと、もう、二度と……描けなくなるよ……」
上澄みのような上辺の言葉しか喉を通らない。
言い訳を積み重ねたところで、過去が変えられるわけでも、事態が好転するわけでもないというのに。
透花の薄っぺらい言葉一つで救われる世界だったのなら、どれほどよかったことか。
ああ、どうして。あまりに不公平じゃないか、不平等じゃないか。
だって、この世界はたった一つの言葉だけで、兄から創作を奪いさったというのに。
「───黙れ!!」
びり、と窓ガラスが軋むほどの慟哭だった。透花の身体は磔にされたように一瞬たりとも動くことが出来なかった。
「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れぇえええ! どいつも、こいつも、五月蠅いんだよ! 描き続けても、死ね、死ね、死ね、描かなくても死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返しやがって語彙力皆無の低能が、てめえらみたいなゴミカスにサンドバックにされる覚えなんかひとっつもねえんだよ!! こっちが必死に命削って描いたもん、盗作だって全否定されて、ただ最年少って話題作りのために選ばれただけとかこき下ろされてさァ、俺以上の才能もない能無しの分際で勝手に評価すんな虫唾が走んだよッ!! ペンも握ったことねえ奴らに漫画の何が、創作したことねえ奴に物語の何が分かるんだ!? てめえらの暇つぶしに俺が、どんだけ人生賭けてるのかも知らねえ癖に知ったように俺のこと語るんじゃねえよ、俺の漫画に金払って読んでもねえ奴らが都合のいい上辺の情報だけ聞き齧って説教垂れて気持ちよくなってんじゃねえよ、俺の漫画はお前らにレイプされるために描いてねえわ、気持ち悪いんだよ吐き気がするッ! いいから黙って読んでくれよ、なあ! どうして誰もちゃんと読んでくれないんだよっ、読まれるために描いたんだよ、そのために必死に描いたんだ、どうしてっ、どうして、それすらできない奴らに俺の漫画をこき下ろされなくちゃいけねえんだよ!! 頼むからさァ、他人の道を妨害するだけの無能な人間は、その辺で誰の邪魔にならないように縮こまって一生自分のしょうもねえ人生嘆いてろや!! ああ、クソ、クソクソ、クソッ!! なんで、なんで、なんで、なんでだよ、なんで俺がそんな奴らのせいで奪われなくちゃいけないんだよっ、どうして俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよッ! なあ、頼むよ、他の何を奪ったっていい、全部くれてやるからっ……! だから、俺から『これ』だけは奪わないでよ。俺には『これ』しか、無い。これだけが、俺の存在価値だ、無くなったら俺は俺じゃ、無くなっちまう……なのに、なんで、なんでっ……」
壊れていく。砂の城が瓦解する、ゆっくりと。
「……………………ああ……、描かなければ、よかった」
それは、縺れた糸の結び目を解く、ひとつめの正解を見つけたときのように呟いた。
「こんなクソみたいな未来が待ってるって知ってたら、俺は……どっかで、立ち止まれたのかな……」
彼の口からその問いかけに対する答えが、続くことは無かった。彼の思考は、とうの昔に破綻していた。在りもしない未来を想像する気力さえ、残されてはいなかったから。
「……もう、いいよ。もう、疲れた」
それが、合図だった。
「俺が創った、俺の物語だ。これ以上、他の誰かに壊されるくらいなら、もういっそ───全部、終わりにする」
彼の手に掬い上げられた物語の死骸たちが、今、この瞬間に、吹き荒れるような風と共に窓の向こう側の闇に攫われようとしていた。
その光景は───まるで地獄だ。
透花の身体は、彼女が脳裏に信号を出すよりも先に動いていた。窓の向こうへと伸びようとしていた手を、無意識に掴んでいた。
「───!」
無我夢中で口走ったその言葉が彼の耳に届いた刹那、透花の身体は振り払われた反動でいとも簡単にドアまで突き飛ばされていた。背中を打ち付けた衝撃で、息が止まる。
朦朧とした意識の中で、それだけははっきりと聞こえた。耳を塞ぎたくなるような、咆哮にも似た嗤い声だ。
「……っ、くははは、ははははっははは、あはははははははははっ!」
床に広がる真っ黒な水溜まりが裸足に滲んで、その闇に侵食されていくようだった。
二重にブレる視界がようやく合わさった時、透花の視線の先には、怪物がいた。
最後の一本の糸にすら縋り付けず地獄に落とされた、怪物がいた。
どうか、この現実が夢であってくれと願いながら、しかし、透花の背中に走る鋭い痛みが逃げようのない現実を突きつけてくる。
「なあ」
息が苦しい。酸素が奪われていく。
暗闇より深い奥底を映したような二つの眼がこちらをじっと見つめている。それは、呪いの言葉だ。一生染みついてとれない呪いの言葉。
「お前は俺に───死ねっていうのか?」
不意に、目が覚めた。
玉のような汗が額から、だらだらと流れ落ちて枕を濡らす。頭を締め付けるような痛みがずきん、ずきん、と悪戯に遠のいては近づいてくる。両手の甲を目に押さえつけ、透花は大きく息を吐き出した。
同じ夢を見る。
それは、あの日犯した罪を決して忘れるな、と囁く神様の仕業とさえ思えた。
ぴこん、と抜更けた通知音が左耳から聴こえてくる。無意識に隣に置いたスマホへを手を伸ばし、しかしその手はぴたりと止まる。力の抜けた腕がそのままベットから落ちた。
心にぽっかり穴が開いたような感覚が、もしこの虚無感を表す言葉だとするなら言い得て妙な表現だと思った。
おそらくこの穴を埋めるピースは、もう、失われた。
見えないように気づかないように目を逸らして無理やり繋ぎ合わせれば、絶え間ない痛みを忘れることが出来るのだろうか。
真っ暗な天井を見つめ続けていると、微かに自分の呼吸音以外の音があることに気付く。
視線を僅かにずらして、音のする方へと引き寄せられる。床に散らばったラフ画、途中描けのままの絵コンテ、無造作に積み上がった資料、転がる鉛筆、ひどい有様の部屋の中でそれは、唯一、目を細めたくなるような光を放っていた。
机の上に置かれたPCは起動したままだった。刺さったままのUSBから赤いランプが何度も点滅している。
透花は静かにその音に耳を澄ませる。
こんなにも胸を容赦なく突き刺す音なのに。耳を塞いで聴こえないようにしてしまいたい衝動が後から後から湧き出て止まないというのに。
(ああ。わたしは……、)
気が付けば、透花の視界は深く、透明な青に呑まれていた。
ひとつ、ふたつ、と枕を濡らす水滴が次から次へと流れ落ちていく。
(あの日からずっと、朝が来るのを待っている)



