音楽なんかで世界は救えない


 言葉を遮られたにちかは、静かに後ろを振り返った。その視線の先で、両手を強く握りしめた纏が静かな怒りを纏わせた険相な顔つきのまま、もう一度繰り返す。

「無駄なことだって言われなきゃ分かんねえのかよ」
「……は? ……それ、どういう意味よ」
「意味も何もそのまんまだよ。そんな無意味なことして何になる?」
「ちょっと、纏」

 頭に血を上らせたにちかが立ち上がって、纏に詰め寄る。横に立っていた佐都子が、慌てて纏の腕を掴んで引き留めるが、纏はそれを強引に振り払った。ふたりは互いしか視界に入っていないのか、まるで意味を成さない。

「纏、あんた自分が何言ったか理解してる?」
「してる。その上で言った、無駄なことだって」
「───っ、纏!」
「ちょっと、ふたりとも!」

 烈火の如く燃え上がったその衝動で、にちかの手は思わず纏の襟首を掴み掛かった。
 しかし、纏は顔色一つ変えずただにちかを見下す。こちらが責めているはずなのに、ぴくりとも動揺しない纏のその気迫に、にちかは一瞬怯む。
 纏は淡々とした口調で続けた。

「はは。本当さ……何にも分かってないね、にちかは」
「何がよ!」
「歪んだ正義感を持った人間が、悪意のある人間より、何倍も残虐なんだよ」

 感情を押し殺した纏の言葉を耳にした瞬間、透花は胸を抉られるような痛みに顔を歪めた。

「お前だってネットの書き込み見たろ? あいつらにとって、盗作疑惑かけられてる『ITSUKA』は成敗すべき悪で、その悪を倒す為にっていう大義名分のもと歪んだ正義感振りかざして悦に浸ってんの。そんな奴らがさ……にちかの言葉に耳を貸すと、本当に思うの? はは。結果なんか目に見えてるよ。『mel』が『ITSUKA』を庇ったってさらに炎上するってオチがさ!」

 目に見えてにちかの顔に動揺が浮かぶ。纏に掴み掛かった腕の力が、抜けていく。

「そんな、こと、」
「───んなことあんだよッ! お前だって知ってるだろ、夕爾の漫画が好きだったならさ!! あいつがどんな、末路を辿ったのか。それでも同じこと言えんのかよ!? なあ!?」

 にちかは血が滲むほど唇を噛み締めた。
 纏の言葉を何一つ反論することが出来なかった。大好きだった漫画が、SNSで誹謗中傷される辛さをにちかは知っている。擁護に回れば、名も知らない幾つものアカウントから吊し上げられ、笑いものにされ、信者だと馬鹿にされた。純粋な読者ほどその餌食にされた。
 ただ……、好きなものを傷つけられたくなかった、それだけだったのに。

「……そんなの、」

 にちかは伏せた顔を上げた。勝手に涙がぽろぽろと、頬を伝う。

「そんなのっ、馬鹿なあたしだって、分かってるよ……! でも、じゃあっ、他にどうしろって言うのよ!! 何も反論せずただ見てるだけ!? このままずっと!? ……だって、透花ちゃんはやってないってそう言ってるんだよ? 纏は、それを信じてあげないの……?」
「っ、僕だって、信じてるよ。透花がそんなことする奴じゃない。そんなこと、ここに居る誰より分かってる!」
「じゃあっ、」
「だから、現実はそんなに甘くないんだよ! やったことの証明より、やってないことを証明する方が何十倍も難しい。証拠もなしに疑惑を晴らすことは不可能なんだよ」

 纏に掴み掛かった手はだらりと落ちた。
 誰も纏を反論する人間はいなかった。纏は、深く息を吐いて重々しく口を開いた。

「ひとつだけ、方法は……ある」

 それぞれが伏せた顔を上げる。一番最後に顔を上げた透花と、纏の視線が合う。その表情を見たとき、透花は纏がこれから何を言おうとしているのか察した。

「───盗作やったことにして、謝罪する。それが今できる、最善の方法」

 皆一様に目を見開いて絶句する。ただ一人、透花を除いて。

「っ、オイ纏! そんなことしたら、透花は、」

 声を荒らげた律を遮るように、纏は慟哭した。

「───言われなくても分かってる! けど、これしかないんだよッ! このまま放置し続けたら、僕たちじゃ透花を守れなくなる! 今はまだ作品に批判の目が向いてるけど、このまま炎上し続ければ、透花個人を攻撃するようになるかもしれない。そうなったら、学校も、顔写真も、住所も、何もかも晒される。夕爾の時みたいに。そうなったら、僕たちには守れない。…………僕たちみたいガキには、何もできないんだよ!」

 言葉では表せない感情が渦巻いて、纏はおかしくなってしまいそうだった。
 守ろうと、思ったのだ。絶対に、同じ結末にはさせないと誓ったはずだった。
 ああ、なんて滑稽。
 よくもそんな戯言がすらすらと、口から出たものだ。好きな女の子の、好きなものすら守れない、所詮、何も出来ない無力な子供の分際で。

「……ごめん、透花。ごめん、」

 今透花がどんな顔をしているのか、直視することが纏には出来なかった。

「僕は……こんな、最低な方法しか思いつかない」

 もし実行すれば、たちまち炎上は鎮火するのだろう。
 けれど裏を返せばそれは、透花が『盗作』をしたというレッテルを一生貼られるということでもある。『ITSUKA』と活動していくことは、おそらく不可能だろう。世間の目は、あまりに厳しい。どれほど良い作品を創ったとしても、色眼鏡で見られ続けることになる。純粋に作品を見てもらうことはできないだろう。
 
 『盗作』を認めることは、すなわち『ITSUKA』を解散することに他ならなかった。

「透花が、決めて。僕は、それに従う」

 罪を認めるか、否か。ここで、『ITSUKA』を終わらせるか、否か。
 透花の目の前に残酷な二択が、突き付けられた。

「わたし、は……」

 呼吸が出来ない。まるで、深く深く海に沈められていくように、身体の感覚が奪われていくようだった。

「……たし、……は、」

 肺が凍てついてしまったようにぱくぱくと口を動かしたところで何一つ声にはならなかった。世界にたった一人取り残されたかのような孤独感に、眩暈がする。ぐにゃりと視界が湾曲する。

 そうして、ふっと身体が羽が付いたような浮遊感の中、透花は思い出す。
 この世界すべてを憎んでも足りないほどの鮮烈な怒りに満ち満ちた瞳がこちらを見ている。

 『お前も俺に───死ねっていうのか?』

 そこから、透花の意識は途切れた。