会場の観客席は、同じ色のTシャツに身を包んだ群衆で、ぎゅうぎゅうに押詰められている。

 観客の波が一体となって、盛り上がりは最高潮に達している。秋風がどこからともなく、汗ばむほどの熱気を攫うように吹くが、それでも熱が冷めることはない。

 割れんばかりの歓声と、雄叫びにも似た『mel』を呼ぶ声が会場のあちこちから飛んでいる。

 野外ステージから見て、右端に設置された関係者席から、透花たちは固唾を呑んで見守る。

 あの短時間で、律とにちかがどれほど練習できたのかは不明だ。

 次々とアーティストがステージに上がるたび、『mel』の順番は差し迫ってくる。

 透花の心臓は脈打つことさえ忘れそうなほど、不安と緊張で押しつぶされそうだった。
 ステージに上がらない人間がこんな状態になっているというなら、にちかは一体どれほどのプレッシャーが圧し掛かっているのか。そんな精神状態でにちかがステージに立つことが出来るのか。最悪な結末が思い浮かんでは消える。

 透花は頭を乱暴に振り、姿勢を正した。

 見据えるのは、夕日に照らされたステージ。ステージのライトが一斉に点灯する。

 一瞬にして会場の歓声が止む。MCの男性がステージの袖で声を張り上げた。

「会場の皆様、大変長らくお待たせいたしました!! 現在、動画サイトを中心に活動を続ける期待の歌い手『mel』の登場です!!」

 鼓膜が弾けるほどの拍手とともに、視線が一点に集まる。
 ステージ中央、スタンドマイクの前に立つのは───ひとりの少女だ。

 少女は、静かに閉じていた瞼を開く。今、彼女の視界に映る世界のすべてが、彼女の歌を待ち望んでいた。

 マイクを握りめた両手に力がこもる。マイク越しに彼女のかすかな呼吸音が流れ込む。

 静寂の3秒間。
 スポットライトが青一色に切り替わった。

「聴いてください。───劣等犯」

 大きく息を吸い込んだ彼女の歌声が、会場全体に響き渡る。

 観客先に向けられたスマホのカメラ。
 しかし、彼女の歌声を耳にした観客たちは次第にスマホ越しの彼女ではなく、今、ステージに立つ彼女の姿に視線が引き寄せられていく。
 
 それは、喉の奥を締め付けるような圧迫感だった。後頭部を殴りつけられるような衝撃だった。

 心の隙間を容赦なく抉られるような痛みが伝染しているようだった。
 
 この世の理不尽も、不条理さも、エゴも、孤独感も、すべてを飲み込んで、それでも彼女は歌うことを止めない。足掻くように歌い続ける。

 それは、誰に向けられたわけでもない、ただ自分のためだけに奏でられる音楽だ。
 自分を救うために歌う、にちかの歌だ。
 
 ───ああ。

 直視するには、こんなにも痛いのに。
 どうしても、目を離すことが出来ない。

 瞬きをする時間すら惜しい。視界を遮る様に透明の膜がゆらりゆらりと揺れては、頬から零れ落ちる。

 この息苦しさを、透花は知っている。

 冷たい床、散らばった無数の物語の残骸たち。足の指先を伝う零れた黒いインク。  
 カーテンから凍てつくような風が吹き込むと、散らばった紙が吹き上げられる。
 目の前に立つその姿には、かつてのあの優しかった兄の面影は、もうどこにもない。

 壊された。理不尽に壊された。
 エゴに壊された。嫉妬に壊された。創作によって壊された。

 そして、最後にとどめを刺したのは、透花だった。

 あの夜、兄に放った一言を透花は後悔し続けた。すでに砂上の楼閣だった兄の心を、一瞬にして粉々に砕くには十分すぎる身勝手な一言だった。

 兄から創作を奪ったわたしに、果たして創作をする資格があるのか? と、透花は未だに見つけられない問題の解き方を糸口を、その時、ようやく掴んだ。

(───ああ)

『なあ』

(それでも、わたしは)

『お前も俺に───死ねっていうのか?』

(物語の続きを、知りたかったんだ)



「……透花?」

 指先に、誰かの指が絡む。
 ただ、何も言わず透花は指先に力を込めた。
 
 言葉にならない感情は、嗚咽となって固く閉じた唇をすり抜けるように漏れ出る。
 
 ずるいよ、にちかちゃん。
 ───透花は、震える唇を引き上げ、笑う。

 こんな歌を聴かされたら、動かされないわけないじゃん。

 ふと、マイクから離れたにちかがこちらを振り返った。目線が合った瞬間、汗に髪を張り付けた彼女は、吹っ切れたように大きく口を開けて笑った。

 その顔を見たとき、透花は逃げ続けた過去に向き合う覚悟が、ようやく決まった。