音楽なんかで世界は救えない




「───だったら、やめればいいじゃん、音楽」

 躊躇ないその言葉は、まるで空が青いことを語るように淡々としていた。
 にちかはゆっくりと顔を上げ、透花を見る。
 どこまでも純粋で無垢な瞳だった。直視するにはあまりに痛い。にちかはその目の覚めるような青から逃げるように目を背ける。

「どうして辞めないの?」

 にちかは、爪を立てるほど強く、丸まった身体を抱き締めた。
 にちかがずっと向き合うことを避けてきた事実を、透花は容赦なく突き付ける。

「にちかちゃんの目的は、誰かを救うことなんでしょう? 『メル』の言葉で自分が一歩踏み出せたように、にちかちゃん自身がそういう存在に成りたいんでしょう? だったら、音楽に固執する必要なんてないよ」

 その通りだ、とにちかは自らを嘲笑う。
 にちかが『ITSUKA』を始めた理由は、音楽をやろうと思ったきっかけは、『二目メメ』の漫画に出会って自分が救われたように、誰かを救いたいと思ったからだ。

 そのための手段が、音楽だった。歌だった。なぜなら、それがにちかにとって、歌が自分にしかない唯一だったから。しかしその手段は、徐々ににちかの中で形を変えた。
 手段に過ぎなかった歌という行為は、にちかにとっての目的へと成り代わっていた。

『誰かを救う』ではなく、『誰かを救う歌を歌う』へと。

「だって、選択肢は幾らだってあるよ? 医者とか、消防士とか、警察官とか、弁護士とか、それこそ『二目メメ』みたいに物語を描くことだって、誰かを救うことに繋がるかもしれない。歌が歌えないなら、もっと他の方法を探せばいい。他人の目が気になるなら、誰の目にもつかないところで、誰かを救えばいい。人前で歌うのが嫌なんでしょう? 怖いんでしょう? 纏くんに辞めるってメッセージ送って、一方的に『ITSUKA』としての関係切っちゃうくらいに」
「……」
「なのに、どうして?」
「……」
「どうして、にちかちゃんは───歌ってたの?」

 第二音楽室のドアが開かれたその時、『ITSUKA』の曲を歌うにちかの横顔が、透花の頭によぎる。

「そ、れは」

 にちかは言葉を詰まらせた。
 にちかは、初めから分かっていた。遅かれ早かれ、結末は決まっていたことを。
 この恐怖に打ち勝つ術をにちかは何一つ持っていなかった。『mel』という隠れ蓑の後ろで無難に事が進むのを傍観するだけの日々に甘んじていた。

 早々に見切りをつけるべきだった。歌ではない選択肢を選ぶべきだった。ライブ出演の依頼も断るべきだった。趣味にとどめておけばよかった。誰もいない部屋で一人、画面の向こうにいる顔も知らない誰かの救いになることを信じて、歌い続ければよかった。

 全て、間違いだったのだ。
 何もかも、間違いしかなかった。

「あたしは……」

 なのに、どうしてあたしはここにいる? と、にちかは自分自身に問いかける。
 自ら放棄した歌う資格なんて、微塵も残されていないというのに。
 それでも歌う理由は、と、にちかは考え抜いた答えがあまりに単純すぎて、思わず泣きながら笑いそうになる。

「……あたし、馬鹿だからさ。小難しいこととか何にも考えらんないや」
「うん」
「だから、理由は単純」

 にちかは立ち上がり、透花の方を振り返った。
 ぐしゃぐしゃな酷い泣きっ面に今自分が出来る最高の笑みを浮かべて。

「───歌うのが好きだから! 好きなこととやりたいこと掛け合わせたらさ、それだけでもう、最強じゃん!」

 雑音が多すぎて、一番大切なことをにちかは忘れていた。
 容量悪い癖に許容量を超えて思い悩むのは、自分の性に合わないってことも。

「だから、歌だけは譲れない。あたしは歌う。あたしが大好きな歌が誰かを救えるって、信じてるから!」

 張り上げた声は、第二音楽室に響き渡る。
 にちかを見上げる透花の瞳が、瞬きする寸前に一番星よりも煌々と輝きを放った。透花は立ち上がり、肩を上下させながら頬を紅潮させるにちかの両手をぎゅうっと握りしめて、満面の笑みで言った。

「わたしに見せて。にちかちゃんの歌が、誰かを救うところを」
「……うん」
「それにね、一番最初に救えるひとはもういるよ」
「え?」

 にちかは顔を上げる。すると、透花は白い頬を柔く緩めて、握りしめた両手をするりとほどき、ゆっくりと人差し指をにちかの胸の前へと向ける。

「にちかちゃん」
「あたし?」
「にちかちゃんが、にちかちゃんの歌で、にちかちゃんを救うところ、わたしに見せて。証明して」

 音楽で世界が救えるって。
 にちかは、力強く頷く。『mel』ではなく、『芦屋にちか』として、証明する。

 逃げる理由を探すのはもう疲れた。だから、次はやれるための方法を探そう。少しくらい挫けても構わない。進む先さえ見失わなければどんな遠回りでも、いつか辿り付けると、にちかは信じることにした。

「任せてよ。最高の歌、聴かせるからさ」

 にちかの手を引いて、透花は進み出す。
 第二音楽室のドアは、もう開かれていた。